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多くの人が「子育て」を「方法」だと思い込んでいます。
だから「子育ての方法を知らないので子育てが上手に出来ません」といいます。 でも、「子育ての方法」なんてどこにも存在していないのです。最初からそんなもの存在していないのです。それなのに、「ないもの」を探してばかりいて、肝心の「目の前の子ども」のことを見ようとしないから、おかしなことになってしまうのです。 また、誰かが「これが子育ての方法だよ」と「その人が考えた子育ての方法」を見せると、すぐに飛びついて困った事になってしまうのです。 「生き方の方法」などこの世には存在していませんよね。 一人一人の運命も、素質も、役割も異なっているのですから、みんなに共通の「生き方の方法」など存在しているはずがないのです。 それは、「子育ての方法」でも同じなんです。 その人の「子育て」は、その人の「生き方」の一部として存在しているのですから、「方法」でなんか解決できるわけがないのです。 確かに、子どもが赤ちゃんの時には「世話の仕方」はあります。「こういうことをしてはいけない」とか「こういう関わり方が必要ですよ」というものがあります。 でも、立って歩くようになり、自己を主張するようになり、「イヤダ イヤダ」を言うようになってくると、もう「方法」は通用しなくなるのです。 「イヤダ イヤダ」を言うようになる頃から、子どもは、「赤ちゃん」ではなく、「一人の人間」として「自分の人生」を歩き始めるからです。 ですから、真剣に子どもと向き合って、子どもと一緒に考えながら、その場その場で答えを探していくしかないのです。 そこに正解はないのです。 昨日うまくいった方法でも、今日もうまく行くとは限りません。 人間は常に変化しているので、「固定的な方法」では対応できないのです。 そもそも、人間を「方法で操作しよう」などと考えること自体が失礼なことです。 先日も、あるお母さんと話をしていて「子育ては芸術なんです」ということを言いました。 芸術といっても絵を描くわけでも、踊りを踊るわけでもありません。 この「芸術」の説明が難しいのですが、何もないただの野原を、自分の意思と、感覚と、判断で歩いた結果が「道」として残っていきます。そんな感じです。 最初に「道」があってそこを歩いたわけではありません。 そもそも、歩いた結果が「道」になるのですから、「道」を探しても無駄なんです。 「道」がないのに、下ばかりを向いて「道」を探して歩いたら、当然のことながら迷子になってしまいます。 本来「芸術」とはそういうものです。 絵や、歌や、踊りだけが芸術ではありません。 人真似をせず、自分が自分らしく生きるだけで「芸術」なんです。 また、「芸術を楽しむ」ということは、人が作ったもの、人が描いたものを見て楽しむことでもありません。 何もない野原を、自分の意思と、感覚と、判断で自由に歩くことを楽しむようなことも芸術なんです。 日本人は「芸術を楽しむ」ということを「鑑賞して楽しむ」ことだと思い込んでいますが、本来芸術は「行為を楽しむ」ものなんです。 ですから、「子育て」を楽しめば、「子育て」が「芸術」になるのです。 すると、「結果」は後からついてくるのです。 最初から「結果」を求めるから、迷子になって「子育て」が「苦しい作業」になってしまうのです。 「生きること」を楽しめば「人生」が「芸術になり、仕事を楽しめば「仕事」が芸術になるのです。 「歩く」というような日常的なことでさえ、歩くことを楽しめば「芸術」になるのです。 子どもたちは遊びを通して芸術活動をしているのです。 子どもの遊びの中には全ての芸術の根源的な要素が含まれているのです。 その芸術活動を十分に楽しめた子は、自分の人生もまた、人に依存することなく、芸術的に生きることが出来るでしょう。 今、「自分探し」をしている人は多いですが、「自分」は「自分自身の行為の結果」としてしか表れないので、何もせずに「自分探し」ばかりしていても無駄なんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.04.20 09:32:44
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