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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声@ Re:「自分の人生においてリーダーになる」(リーダーが育たない社会)(04/23) >今日の先生の言葉は私の身体を貫きまし…

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森の声

森の声

2017.05.25
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カテゴリ:カテゴリ未分類
自閉症とか、発達障害と呼ばれる子どもたちがいます。

そのような子どもたちには、「他の子と同じことが出来ない」「コミュニケーションが困難」「ルールを守れない」「普通の子と興味や関心が違う」「指示や命令に従うことが出来ない」などの特徴があります。

そのため、幼稚園や小学校といった集団生活の場では「問題児」になります。

でも、不思議なことに私が活動しているような「遊びの場」や、「造形などの場」では「問題児」にならないことが多いのです。

つまり、自分の興味や関心に従って行動してもいいような場や状況では、障害が消えてしまうのです。

大人の価値観や社会のルールに合わせることは困難でも、自分の価値観や自分のルールが肯定されるような場では、「障害児」ではなく「普通の子」になってしまうのです。

それで私は以前から、一般的に言われている「障害」とは、「脳の欠陥」や「人格障害」などではなく、単なる「感覚特性の違い」なのではないかと思っていました。

犬は黄色や青は認識出来ても、赤と緑は認識出来ないそうです。つまり犬は赤と緑のない世界に住んでいるわけです。

ですから、信号を守る犬がいたとしても、その犬は「信号の色」で判断しているのではなく、三つのライトの「明るくなる場所」の違いで判断しているわけです。

人間は「色」で判断しているのですが、犬は「位置」で判断しているのです。

ですから、人間の子どもに「信号の見分け方」を教える場合と、犬に「信号の見分け方」を教える場合とでは自ずと方法も変わってくるはずです。

コウモリは目がよく見えません。でも、「音」で世界を見ているので、高速で飛んでいても物や仲間にぶつかりません。真っ暗なトンネルの中でも自由に飛び回れます。

でも、人間が目を閉じたら、動けなくなります。すぐ物や人にぶつかってしまいます。

当然コウモリには「色」は見えません。でも、コウモリがコウモリの生活をする上ではそれは何の障害にもなりません。

ちなみに、「感覚の違い」を分かりやすく説明するために、犬やコウモリという例えを出していますが、障害を持っている子を犬やコウモリに例えているわけではありませんからね。勘違いしないようにお願いします。

それに、私は人間の方が犬やコウモリよりも優れているとも思っていません。そこにあるのは「違い」だけであって「上下」ではないからです。

人間は「人間」としては賢いですが、それはあくまでも「人間」を基準にした賢さに過ぎません。犬は犬として賢く、コウモリはコウモリとして賢いのです。そして、その「賢さ」に上下はありません。


このような「感覚の違い」は人間と動物の間だけにあるものではありません。
大人と子どもとの間にもこのような「感覚の違い」があります。
気質が異なれば感覚も異なります。
住んでいる風土や文化が違っても「感覚の違い」が生まれます。
性別や年令や立場の違いも「感覚の違い」に影響を与えています。

「教師の感覚」と「サラリーマンの感覚」は異なるのです。

「感覚」は目に見えない働きなので、その違いに気付くことは滅多にありませんが、でも、感覚の状態は一人一人違うのです。

だから、マニュアル的な方法で子どもを育てようとしたり、教育しようとしても失敗するのです。

同じ言葉を聞いても、同じものを見せても、同じ事を体験させても、みんな違う理解をし、違う学びをするのです。

そこにあるのは単なる「違い」であって、誰が正しいとか、どっちが正しいと言うようなことではないはずなのですが、でも、どんなグループにも多数派がいて、その多数派の感覚や意見だけが正しくて、少数派の感覚や意見は「間違ったもの」として処理されてしまうのです。

「教師の感覚」と「お母さんの感覚」は違うのですが、教師は自分の感覚の方が正しいと思い込んでいます。そしてお母さんにも「教師の感覚」を押しつけます。

でもそれは単なる思い込みであって事実ではありません。でも、教師もお母さんもそのことに気付きません。

お母さんが「教師の感覚」で子育てをしようとすると、子どもは「お母さん」を失い、苦しくなります。


自閉症や発達障害と呼ばれるものもそのようにして生まれてきた要素が強いのではないかと思うのです。

本来はそこにあるのは「違い」だけで、「上下」ではなかったはずなんですが、多数派がその状態を「上下」で判断するから「障害」になってしまっているのです。

ネットで「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!」という記事を見つけました。
面白いですからお読みになってみて下さい。

今見つけたのですが、

これも面白いです。
「ADHDと失語症のCEOはどうやって会社を経営しているのか?という実例」





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Last updated  2017.05.25 08:21:30
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