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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2018.09.25
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カテゴリ:カテゴリ未分類
人と人がつながるためには「人と人をつなぐもの」が必要になります。

それは「言葉」であったり、「知識」であったり、「宗教」であったり、様々な「文化」であったり、「お金」であったり、「身体的な触れ合い」であったりします。

他にもまだまだいっぱいあります。

子どもの場合は「遊び」が「自分と仲間をつなぐもの」になっています。

上に書いた「言葉」や、「知識」や、「宗教」や、「様々な文化」や、「お金」や「身体的触れ合い」といった「つなぐもの」は、大人と大人をつなぐのには有効ですが、子どもと子どものつながりにおいてはあまり重要ではありません。

子どもたちは一緒に遊ぶことで仲間作りをしているのです。

だから異なった文化圏に育った大人がつながり合うのは難しいのですが、子ども同士はアフリカの子でも、日本の子でも、南米の子でも、すぐに一緒に遊べるのです。

子どもたちのイジメを考えるときにはこの視点は非常に重要になります。

大人達は「仲良く遊びなさい」「イジメはよくないことですよ」と子どもに教えていますが、でも、こんな知識子どもには何の意味もありません。

学校でもイジメをなくすために道徳教育などに力を入れていますが、「つなぐもの」を与えずに「つながれ」と言っても無理なんです。

大人だって「戦争は良くない」とか「人殺しは良くない」と知っているはずなのに戦争をしたり人を殺したりしていますよね。

その主な原因は「自分や、自分の仲間や、自分の国を守るため」です。

じゃあどうしたらいいのかということですが、大人の場合は相手のことをよく知ることです。そして、相手と自分の共通しているところを探し、その部分でつながろうとするのです。その際、自分と違うところを探し、相手を変えようとすると戦いが起きます。

相手と仲良くなって、相手から自分を守る必要がなくなれば戦争も人殺しも起きないのです。

ただ大人の場合は、歴史問題などが絡んでくるので、実際にはそう簡単には行きません。
でも、子どもと子どもの場合は「遊びが好き」という生まれつきの共通項があるし、「歴史問題」は絡んでこないので、比較的シンプルに仲間作りをすることが出来ます。

ただ問題は「遊び」は「文化」なので、「遊び」を知らない子ばかりが集まっても遊べないと言うことです。遊びを知らない子どもたちは、「オモチャ」や「木の棒」などといった、「そこにある物」で遊んだり、大勢で走り回ったり、誰かをいじめて遊ぼうとします。

これは部屋の中での遊びでも、森の中でも同じです。

ただ、「オモチャ」のような、「部屋の中にあるもの」は数が限られているので、すぐに奪い合いになってしまうということです。

森の中でも「かっこいい木の枝」を奪い合ってケンカしたりします。

「一緒に遊ぶ遊び」を知っていれば「オモチャ」や「物」など必要がないのですが、遊びを知らない子は、自分の個人的な興味だけで遊ぼうとするので、すぐに対立したりしてしまうのです。

それで大人は「ケンカしてはいけません」と子ども同士を引き離して問題を解決しようとしますが、子どもは本能的に子どもを求めるので、またすぐに近寄ってケンカを始めます。

それでも、同じ興味の子同士は一緒に遊べるのですが、同じ事の繰り返しばかりで遊びが発展していきません。

また、子どものイジメや対立などの背景には「ゲーム」の問題もあります。いつもゲームで遊んでいる子は、他の子と遊びを共有することが出来ないため一緒に遊べないのです。

ゲームは個人の遊びです。ネットでつながり合っていても、実際にその場にいるのは自分だけです。ゲームでの遊びは共有出来ないのです。そのため、「遊びを共有する」という感覚が分からないようなんです。

また、ゲームでの遊びは自己完結しているので、他の誰かから教えてもらう必要がありません。昔のコマ回しやお手玉は「文化」でしたから、誰かに教えてもらう必要があったのですが、ゲームでの遊びには「他者とのつながり」は必要がないのです。

それが「ゲーム」の最大の問題です。
内容の問題でも、ゲームばっかりやって勉強しなくなってしまうという問題でもないのです。

中毒の問題は大きいですが、大人がちゃんと管理すればそれはそれほど大きな問題にはならないでしょう。

ゲームは「一人での遊び」です。擬似的な他者や、回線の向こうに他者がいることはありますが、身体感覚的には一人での遊びです。

ですから、ゲームでの遊びを通してでも「概念としての他者」を認識することは出来るようになりますが、「血が流れ、自分と同じ喜怒哀楽の感情を持ち、自分と同じ生身のからだを持っている他者」を、身体感覚的に認識出来なくなってしまう可能性が高いのです。

(実際、そういうことを感じるような事件が多いです。)

それはどういうことかというと、泣いている人を見て「泣いている。何か悲しいことがあったんだろうな。」という判断は出来るようになっても、相手の悲しみを一緒に悲しむ感性が失われてしまうということです。共感する能力が育たないからです。

個人の成長だけを見ている限り、ゲームはそれほど大きな問題を持っていません。
時には個人の能力を成長させる手助けもしてくれます。
ゲームに勉強の手助けをさせることも可能です。
社会が「子どもとゲームとの関わり方」に関しての共通ルールを持つことが出来るようになれば、ゲームに関して、今騒がれているよう問題はやがて解決していくでしょう。

子どもの「個人としての成長」には何の問題にもならなくなるでしょう。むしろ、「大人の期待通りに子どもを育てることが出来る便利なツール」として肯定されていくでしょう。

でも、子どもの「子どもらしさ」はゲームによって奪われてしまうので、ゲームで遊んだ子どもたちが増えていくことで、社会全体の「人間らしさ」は大きく変成していくでしょう。

また、ゲームは子どもの脳内欲求は満たしてくれますが身体欲求は満たしてくれないので、心とからだのつながりが不安定な大人が増えていくでしょう。そのような人は「理由が分からない不安」をいつも抱えることになります。

「ルールでつながった社会」は可能ですが、「心でつながった社会」は消えて行くでしょう。

「それが未来の社会のあり方だ」と言えばそれまでのことですが、私はそういう社会は嫌です。





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Last updated  2018.09.25 07:20:52
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