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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2019.07.19
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今日はちょっとテーマを変えます。

昨今、幼児虐待が増え、それで死亡してしまう子も増えていますが、そのような事件に対する世間の反応は親を非難するものばかりです。

でも実際には、悪人でなくても、普通の人でも、普段は優しいお母さんでも、高学歴の人でも、虐待を非難している人でも、人は誰でも追い詰められれば自分を守るために子どもを虐待してしまう可能性があるのです。

「絶対に自分はそんなことしない」と思っているような人でも、その意思が揺らぐような状況にまで追い込まれたら、その「絶対」は消えてしまうのです。

「子殺しは」、人間以外の動物においても珍しい行動ではありません。

「自分を守るか」「子どもを守るか」という、二者選択の状況に追い詰められれば人間も、動物も我が子を殺してしまうことがよくあるのです。

それは親の人格とは関係がありません。「自分の命」を守るための行為は本能的なものなので、そこに人格は関係がないのです。

夫のDVから我が身を守るために、一緒になって我が子を虐待してしまうお母さんもいっぱいいます。

戦争中、防空壕の中で泣き出した我が子の口を押さえ、窒息死させてしまった人の話を読んだことがあります。

満州からの引き上げの時にも、多くの足手まといになるような小さな子が現地の人に託されてしまいました。悪い言い方をすれば、子どもを捨てたのです。

でもそれは、お母さんをそこまで追い詰めた人や、状況の責任であって、お母さんだけを責めても問題は解決しません。

ただ問題なのは、現代人はそのような「命の危険」を感じるまで追い詰められなくても、「自分」を守るために虐待に走ってしまう人が多いということです。

この場合の「自分」は「自分の命」ではありません。命の危険を感じるまで追い詰められることは現代社会ではあまりないからです。

じゃあ、どんな「自分」なのかというと、「何でも思い通りにしたいという自分」です。

「自由な自分」と言い換えることも出来るかも知れません。

子どもが生まれると、確実に「自由な自分」は阻害されます。

その時、「一緒」を楽しむ感性が育っていればいいのですが、子どもの頃から一人で遊び、仲間と楽しく遊んだ体験も、家族で楽しく過ごした記憶もない人の場合は、「世界」が「自分」だけで閉ざされてしまっているため、「自分の自由が奪われること」は、「自分の存在」自体が否定されるような感覚に囚われてしまいやすいのです。


そのため、「自分の自由」を得るために、子どもに「不自由」を押しつけます。「しつけ」と称して、自分の価値観を子どもに押しつけようとします。

親が遊びに出るときに子どもが邪魔なので、家の中に閉じ込めたりします。
自分のことだけで頭の中がいっぱいなので、「子どもがどう感じるのか」などということは想像も出来ません。

ただし、ちゃんと食事は置いて行きます。「子どもの心」には関心がなくても、「死んでもいい」とまでは思っていないからです。

それは、ペットに対する感覚と同じです。

でも、子どもはペットのように従順ではありません。お菓子(餌)でしつけることも出来ません。怒鳴っても、叩いても、言うことを聞きません。

どんなに丁寧に、優しい言葉で説明しても子どもは理解してくれません。
子どもは「お母さんのため」にではなく、「自分のために」生きているからです。

結果、親は「自由」を奪われます。

そして、「自分を守るか」「子どもを守るか」という岐路に立たされます。そこで「自分を守る」ことの方を選択した人は子どもを虐待するようになります。

でも、本人は子どもを「自分の自由を阻害しない存在」にしたいだけです。そしてそれが「しつけというものの目的」だと思い込んでいます。
ですから、「虐待している」という認識はありません。子どもを殺したいわけでもありません。
その人はその人なりに子どもを愛しているのです。自分の所有物として・・・。

だから、我が子が他の人に叱られたり、他の子にいじめられると子どもを守るために怒ります。
自分はそれ以上のことを毎日やっていてもです。

子どものことをよく知らない人ほど、「子どもは育て方次第でなんとかなる」と思い込んでいるので、「子どもが言うことを聞かないのは自分のしつけがまだ足らないからだ」と思い込んで「しつけ」にのめり込んでしまうのです。

「こんなことやっていたら死んじゃうだろう」というようなことをしている人も、子どもを殺したいわけではなく、ただ「自分」を守りたいだけなんです。


でも、「子どもを守る」という生き方を選択できる人もいます。

その両者を分けているのが「待てるか」「待てないか」ということです。

人格とか、教養とか、学歴とかは全く関係がありません。

「待てる人」なのか「待てない人」なのか、
そこだけの違いです。

明るくて、楽しくて、優しそうなお母さんでも、「待てない人」は子育ての場で追い詰められてしまうと子どもを虐待してしまう可能性が高いのです。

でも根は善人ですから、そんな自分を否定して、罪悪心にさいなまれ、苦しくなります。
「子どもを虐待している人=悪人」ではないのです。

じゃあどうして、「待てる人」は虐待に走りにくいのかというと、「待つ」ということは「他者の価値」を認めることでもあるからです。

我慢強いから待てるわけではありません。「他者の価値」を尊重しているから待てるのです。だから「自分中心」のものの考え方をしている人は待てないのです。


スポーツや仕事の場では「待つことが出来る人」でも、一対一の人間関係の中で他者を待つ事が出来るとは限らないのです。

そして困ったことに「待てない子どもたち」や「〝ちょっと待って!〟が通じない子どもたち」が急増しています。

そのような子は、待たなければならないような状況でも待つことなく、「簡単に退屈を紛らわせてくれる刺激」を求めて行動します。

ちなみに、「待てない人」ほど自分の感覚に対する意識が弱いです。自分の感覚を大切にしていません。

意識が外側(外部刺激)にばかり向いてしまっていて、自分の心や、からだの中に意識を向けることが出来ないからです。


ですから、感覚を大事にしない社会では、必然的に「待てない人」が増えていくのです。

虐待も・・・・。





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Last updated  2019.07.20 04:56:15
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