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まだ生活がこんなにも便利になる前の時代に生きていた人たちは、自分の心や、感覚や、からだをフル活動させて生きていました。
自分の心や、感覚や、からだをフル活動させないことにはご飯も炊けなかったし、仕事も子育ても出来なかったし、危険から身を守ることも、食べ物を狩り、育て、採取することも出来なかったからです。 ですから、子どもたちも日常生活の中で自然と心や、感覚や、からだの使い方を学ぶことが出来ました。 その中には「人間関係を作る能力」も含まれています。 そして、同時に自己肯定感も育っていきました。 「現実の自分」と「頭の中の自分」が一致していたからです。 でも、様々な便利な機械が発明され、大人から子どもまで自由にそれらを使いこなし、心や、感覚や、からだがやっていたことまを機械がやってくれるようになってくると、生活の場で、心や、感覚や、からだを使う場面が減ってきてしまいました。 遊びでさえ、簡単便利になってしまいました。 その結果、子どもたちは、自分の心や、感覚や、からだの能力を育てることが出来なくなりました。 その一方で、自分自身の心や、感覚や、からだの働きとはつながらない「情報」はいっぱい頭の中に詰め込まれるようになりました。 その結果、その「情報」に基づく、「思い込みの自分」「思い込みの人間観」「思い込みの社会観」「思い込みの自然観」だけで生きるようになってきました。 でも、その「思い込みの世界」は現実の世界とはつながっていません。自分の体験を通して知った世界ではないからです。 そのため、「思い込みの世界」には、自分の心や、感覚や、からだを納得させる力がありません。 その不安定さが自己肯定感の低さの背景にあります。 さらに、子どもたちは刺激の強い人工的な音や、光や、情報に囲まれて生きています。 そのため、からだは使わないのに、心や、感覚は自然界にはないようなレベルの刺激に晒されています。 その結果、心や、感覚は自分の働きを守るために、外部からの情報を適度に遮断する能力を身につけるようになりました。 強い刺激をそのまま受け入れていたら壊れてしまうからです。 簡単に言うと、鈍くすることで身を守るようになったのです。 そのため、更に強い刺激が必要になってきました。 そして、「見ようとしなければ見えない世界」「聞こうとしなければ聞こえない世界」「感じようとしなければ感じることが出来ない世界」が人々の意識からスッポリと消えてしまい、「さあ見ろ」「さあ聞け」「さあ感じろ」と押しつけてくるものや、「自分が見たいもの」、「聞きたいもの」、「感じたいもの」だけが「この世界の全て」になってしまいました。 でも、そのような状態では自己肯定感は保ちようがありません。 現代人がセラピストなどのところに行って求めている「自己肯定感」は、本当の意味の自己肯定感ではなく「思い込みとしての自己肯定感」に過ぎません。 そもそも、自分の心や、感覚や、からだをフル活動させて生きている人には「自己肯定感」という概念自体がありません。 ただ「自分らしい自分」を生きているだけだからです。 確かにその鈍い感覚や軟弱なからだでも、簡単便利な機械を使えば普通に生活できます。何にも困りません。 でも、そのような状態では「子育て」が出来ないのです。 子育てには、「見ようとしなければ見えない世界」「聞こうとしなければ聞こえない世界」「感じようとしなければ感じることが出来ない世界」を見、聞き、感じることが出来る能力が必要だからです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.07.21 07:05:19
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