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現代社会における「ものの価値」は、社会経済における需要と供給のバランスで決まります。それがそのものの値段となって表れています。
物だけでなく、命や自然の価値までも社会経済によって決められ、お金に換算されています。 人の命ですら、「生涯いくら稼げるか」ということで量られたりします。実際、それが事故などの補償の時の保証金額の判断の基準にもなったりもします。 全く同じように見えるものでも本物は高く、レプリカは安いです。本物と偽物の区別が付かない人には同じだろうと思うのですが、実際には値段が全く違うのです。 どんなに頑張って作ったようなものでも、素敵なものでも、需要がないものは値段が安いです。そして値段が安い物には社会的な価値はありません。 それに対して、簡単に作ることが出来るようなものでも、特許という社会システムによって守られたものは、値段が高く社会的な価値があります。 また、海で拾った流木には社会的な価値はありませんが、それがお店に並べられて値段が付けられると社会的な価値が生まれます。 そして大人は、その「社会的価値」によって、「ものの価値」を判断しています。つまり「高いもの」には価値があって、「高くないもの」には価値がないということです。 本来は「社会的な価値(値段)」と「そのもの本来の価値」は全く別のもののはずなんですが、それが同一視されるようになってしまったのです。 だからお金を稼いでいない「専業主婦」を「価値がない存在だ」と考える人もいるわけです。専業主婦を擁護する人たちも、「専業主婦の価値」を「お金に換算できる社会的な労働」に換算して「専業主婦の労働は社会的にはいくらぐらいの価値を持っている」と主張しています。 寝たきりの障害者や子どもを「価値がない存在だ」と言う人がいるのも、寝たきりの障害者や子どもはお金を稼ぐことが出来ないからです。 でも本来「お母さん」の役割はお金には換算できないものです。というか、全ての存在の価値はお金には換算できないのです。 もちろん、障害を持っていようといまいと、子どもであろうと赤ちゃんであろうと、その存在は唯一無二のものであって、お金には換算できません。 大人達は、「社会がものの価値を決める世界」に生きています。それは、お金が価値を決める世界であり、全ての価値が相対的であり「絶対的な価値」が存在しない世界です。 価値の基準である「お金の価値」自体も常に変動しています。 実際、「お金の価値」にはリアリティーがありません。それは脳内蜃気楼のようなものです。ですから、「お金中毒」になってしまっている人の心は不安定です。 自分の脳の中にしか存在していないものを常に追いかけているのですから。 また、常に変動していてリアリティーがない世界に生きているので、何かを信じるということもできません。 それに対して、まだ自分の感覚に従ってリアルな世界の中で生きている子どもたちは、大人とは全く異なる価値の世界に生きています。 子どもは「他人が決めた価値」や「大人が決めた価値」には振り回されません。 「自分にとっての価値」は自分が決めます。 10万円のダイヤモンドよりも、自分で拾い、自分で磨いてピカピカにしたドングリの方が価値があると思う子もいるでしょう。 子どもの場合は、「自分との関係の深さ」がそのものの価値を決めているからです。 この状態は思春期が来る頃まで続きます。 それは単に、「自分でお金を稼いでいないから」ということではありません。思春期前の子どもには、お金に価値を与えている「社会」という組織自体が理解出来ないからです。科学的な思考も理解出来ません。 子どもは古代の人と同じように、「物語」と「科学」を区別できないからです。 ですから、今でも「お金が存在しない世界」に生きている人たちは、大人であっても子どもと同じ価値の世界に生きています。 それは「自分たちにとっての価値は自分たちで決める」という世界です。 「部族の中で共有できるリアリティー」が価値を決めているのです。 神様も、「価値があったから大切にした」のではなく、「みんなが大切にしているものだから価値」があったのです。 今では「高いものだから大切にしなさい」と言われますが、昔はみんなが大切にしているものだから価値があり、大切にしたのです。 そして、本来は人間にとっての価値というものはそのようなものだったのです。自分にとっての価値は自分で決めていたのです。 でも今では、社会的な価値がないものは全て「無意味で価値がないもの」になってしまいました。 空気も、水も、土も、子どもも、光も、命も、葉っぱも、ドングリも・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.08.11 07:37:40
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