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昨日は、
意識が心の中に向かいがちな憂鬱質の人でも、感覚の働きを大切に生活していると、不安や悩みに振り回されなくなるのです。 と書きましたが、だからといってそう簡単に感覚に意識を向けることが出来るようになるわけではありません。 感覚の働きを大切にするといっても、それまで感覚の働きを大切にしてこなかった人はそれがどういうことか分かりません。 そもそも、自分の感覚に気付くことすらないかも知れません。 人は、それまで見えていたのに見えなくなったり、それまで聞こえていたのに聞こえなくなれば気付きますが、最初から意識したことがないものに気付くことは出来ないのです。 そしてそれはその人の心の中の物語と関係しています。 人は誰でも、心の中に自分だけの物語を持っています。その物語は人類の歴史とも、自然とも、宇宙ともつながっていますが、幼い頃から見聞きし体験してきたことが、一人一人の物語に個性を与えています。 それは同じケヤキの木でも、大地から切り離された後は、ある木は家になり、ある木は食器になり、ある木はイスになり、というような個性です。 「ケヤキの木」という原初的な個性(それが気質です)は同じでも、今現在の状態は「どう扱われてきたか」ということに応じて、全く異なったものになるのです。 そしてその「どう」扱われてきたのか」ということが、その人の「一人の人間としての物語の状態」を決めています。 そして、その人の感覚は、その人の物語に沿って働くように最適化されます。 家になった木は「家としての物語」と「家としての感性」を持っています、イスになった木は「イスとしての物語」と「イスとしての感性」を持っています。 もちろん姿形は変わっても、素材としての「木としての感性」は変わっていません。でも、その感性は生まれつきのものなのであまり自覚されることはありません。 ただし、人間の場合はもっと話が複雑になります。 なぜなら、物理的には同じ環境で育った子、同じような状態で育った子でも、その環境との関わり合いの違いによって、子どもは異なった物語を持つようになってしまうからです。 同じように、大勢の人間に囲まれて育った子でも、みんなに肯定されながら育った子は人間に対して肯定的な物語を持つようになります。だから、人間を信じることも出来ます。 そして人間の肯定的な側面に対する感受性が高くなります。だから、良い人を見分ける能力も高いです。 「悪い人」がどのような人なのかはよく分かりませんが、そのような人の近くに行くと違和感を感じます。 逆に、周囲から否定されながら育った子は、人間に対して否定的な物語を生きるようになります。 そして人間の否定的な側面に対する感受性が高くなり、自分と同じような「人間に対して否定的な感性を持っている仲間」を見分ける能力が高くなります。 「良い人」がどのような人なのかはよく分かりませんが、そのような人の近くに行くと違和感を感じます。 で、結局両者とも「類は友を呼ぶ」という状態になります。 同じ物語を持っているもの同士が集まるのです。同じ物語を持っているもの同士は共通の感覚、価値観、物語を生きているので簡単につながれるからです。 スマホやゲームなどの機械でばかり遊んで育った人は、「自分の物語」の中に「機械の物語」も取り込まれているので、機械に対する感受性は高くなります。 でも、人との関わり合いによって「人間の物語」が育っていなければ、人間に対する感受性は低くなります。 でも、この物語は変えることも出来ます。 都会で生まれ育った人をいきなり自然の中に連れて行っても、自然を感じる能力は低いです。 でも、「自然の物語」に詳しい人に「自然の物語」を教えてもらい、自然との関わり合いを増やすことで、自分の物語の中に自然の物語も組み込まれるようになり、自然を感じる能力も育っていくのです。 この際大切なのは、「自然に対する知識」を学ぶのではなく、「自然を支えている物語」を学ぶということです。 「物語」には「自分という人間を支えている物語」を変える力がありますが、「知識」はただ溜め込まれるだけだからです。 「物語」とつながらない「知識」には人を変える力はないのです。 まただから、本をいっぱい読んでお勉強しただけでは人は変われないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.09.15 08:53:19
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