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キリスト教ではこの世界の全ては神様が「言葉」で創ったことになっています。
それはつまり、この世界に「神様の不思議」は存在していても、「自然の不思議」は存在していないということです。 「自然の中に神様の不思議を感じる」というようなことはあるでしょうが、「自然の働きそのものの不思議を感じる」という感覚はなかったのではないかと思います。 つまり、種から芽が出て花が咲く現象に「神様の働きの不思議」を感じることはあっても、「命の働きの不思議」を感じることはなかったのではないかと言うことです。 そして、神様の働きとして理解出来ないことは悪魔の仕業として理解されました。 神の子として創られた人間に災いを成すものはすべて悪魔の仕業か、神を裏切った人間の罪によるもの(自業自得)として理解されたのです。 「死」も「お産の苦しみ」も、人間の罪として理解されていました。 もともとキリスト教文化は、自然や命の現実をありのままの姿で見ようとしない非科学的な文化だったのです。 キリスト教の前身のユダヤ教は民族をまとめるための宗教でしたから、客観的な自然や命の現実よりも、「自分たちは神に創られ、神に選ばれた特別な存在なんだ」という主観的な思想の方が大事だったのです。 そのユダヤ教の流れの中に生まれたイエス・キリストは、そのユダヤ人限定の宗教を、「ユダヤ人だけでなく全ての人がその救いの対象になるんだよ」と説きました。だから世界宗教になることが出来たのです。 でも、その対象はあくまでも「人間」であって、人間以外の生き物や自然はその対象には含まれていませんでした。 また、「神様を理解したい」という思いが強かったので、様々な自然現象を観察することで、神様の働きを理解しようとしました。 神様がこの世界を創ったのなら、この世界をよく観察することで神様の不思議を理解し、神様に近づけるのではないかと考えたのです。 ニュートンやガリレオは科学者として有名ですが、同時に神学者でもあったのです。 でも、皮肉にもその「神様のことをよく知りたい」という想いが、神様なんかいないという現実を明らかにしてしまったのです。 研究が進むにつれて、この世界を支えているのは、「神様」ではなく単なる「物理学の法則」だということを発見してしまったのです。 そして、今度は「科学」が「神様」になりました。 その科学で大切にされているのも人間ではありません。科学が、「人間もまた科学的な現象の結果に過ぎない」ということを明らかにしてしまったからです。 科学の目的は科学の可能性を探究することだけです。そこには神様も、人間も、自然も存在していません。 西洋は、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」という価値観が生まれないまま科学中心時代に入ってしまったのです。 ただ、1960年代の後半ぐらいから神様を失ってしまったその後を埋めるように、一部の若者達の間に、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」「自分は自分だ」という価値観や考え方が広がり始めました。 そのきっかけになったのが東洋の思想です。 そして、外側の世界に神様を探すのではなく、自分の内側を探り、命の神秘、宇宙の神秘に近づこうと瞑想をする若者も増えました。 インドに行く若者も増えました。 去年インド最北端の都市ラダックに行きましたが、ラダックのチベット仏教の寺院でも、瞑想をしている欧米の若者を何人も見かけました。 世界を創った神様と違って、「仏」は外の世界にはいません。「仏」と会いたいのなら、自分の内側を見つめるしかないのです。自分の内側を通して宇宙と出会うのです。それが仏教です。 でも、その東洋で生まれた「自分の内側を見つめるだけの宗教」は、「安心」は与えてくれましたが、「この世界の仕組み」は明らかにしてくれませんでした。科学も生まれませんでした。豊かさももたらしてくれませんでした。 で結局、西洋文明の強さと豊かさに負けてしまいました。 その結果、東洋では、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」とか、「自分を見つめる」という思想を捨ててしまう人たちが増えて来ました。 そして、東洋的な価値観を捨てて、追いつけ追い越せと頑張ってようやく、豊かさにおいて西洋文明に追いつきました。 その先頭に立っていたのが日本です。 でも今、多くの日本人が目標を失い、空っぽになってしまっている自分に気付き始めています。その「空っぽ」は「理由のない不安」として働き、人々を競争に追い立てたり、考え方を保守的にしています。 麻薬やゲームのように「自分を忘れさせてくれるもの」に夢中になる人も増えて来ました。 その状態から抜け出すためには、もう一度「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」ということに気付く必要があるのです。 そして、自分を見つめ、自然の不思議、命の不思議、「自分」という存在の不思議を感じる感性を取り戻すことです。 西洋的な価値観と東洋的な価値観が融合しないことには、ここから先の未来はないのです。 ちなみに、多血質や胆汁質の人は、「神様」のような「外側にあるもの」に価値基準を探そうとする傾向があります。 それに対して、粘液質や憂鬱質の人は、「仏」のような「内側にあるもの」に価値基準を探そうとする傾向があります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.09.19 05:45:06
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