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森の声

森の声

2019.10.17
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カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日、ネットを色々と見ていたら、禅の曹洞宗の開祖である道元禅師が弟子に「成功する人と成功しない人の違い」を説明した時の話が書いてありました。
https://www.mag2.com/p/news/419208

弟子が道元禅師に「成功する人としない人の違いは」と聞いたところ、道元禅師は「努力するか、努力しないかの違いだ」と答えました。

そこで弟子が、「では、努力できる人と、出来ない人の違いは」と聞き返しました。

すると、道元禅師は「志があるか、ないかの違いだ」と答えました。

でも、まだ釈然としない弟子はさらに「では、どうして志がある人と、ない人がいるのですか」と聞きました。

すると道元禅師は

「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ」

と答えました。

知識としては、「人は誰でも死ぬ」ということは誰でも知っています。でも、その知識を「自分自身にとっての事実」として、感覚的に認識出来ている人はそれほど多くないと思います。

だからみんな、平気で自分の人生を無駄にするような生き方をしているのです。

私たちは一人一人皆「かけがえのない時間」「やり直しのきかない時間」を生きています。

それは子どもも同じです。親は子どもの人生の「かけがえのない時間」「やり直しのきかない時間」を預かっているのです。

だから大人は子どもと真剣に向き合わなければいけないのです。
そして、子どもと真剣に向き合えている人は自分自身とも真剣に向き合えていると思います。

というか、「自分自身の命(人生)」とちゃんと向き合えているからこそ、「子どもの命(人生)」ともちゃんと向き合えるのです。

多くの人の場合、「自分の命の大切さ」や「人生の限界」に気付くのは年を取ってからです。
年を取ってきて、人生の可能性がドンドン失われ始めてから、「自分の命には終わりがあるんだ」と気付くのです。そして、「ああ生きれば良かった、あれもやっておけば良かった、もっと努力すれば良かった」と後悔するのです。

それは、社会人になってから「子どもの頃にもっと勉強しておけば良かった」と気付くようなものです。

そこから生き直そうとする人もいますが、ほとんどの人は自分の限界を感じるようになるとそこで諦めます。

でも、若い頃から「命の大切さ」や「自分の人生には限りがある」ということをちゃんと知っている人は、志を持つことも、努力することも出来るでしょう。そして、後悔しない人生を生きようとするでしょう。

「命の大切さ」や、「自分の死」や、「自分の命の限界」を自覚するだけで人生の質は向上するのです。

とは言っても、死が身近な所にあった道元禅師の時代ですら、死を自分自身の人生と重ね合わせてちゃんと理解している人は少なかったのですから、死の体験をほとんどすることがない現代人が、死について、ましてや「自分自身の死」について考えることは滅多にありません。

むしろ、現代人は「死」を避けて生きています。「死」を隠そう隠そうとしています。「死」についての話など滅多にしません。

昔話も誰も死なないように作り替えたりしています。
ペットも「死んじゃうから飼わない」という人は多いです。

日常的に私たちが食べている豚肉や牛肉は、「豚や牛の死骸から切り取られたものだ」ということを考えないようにしています。

でも、「死」を考えないようにするということは、「生きる」ということや「命の大切さ」を考えないようにすることと同じなんです。

現代人は「命を大切にしよう」とは言います。マスコミも、先生も、親も「命を大切にしよう」と言います。でも「死」について語らなければ「命の大切さ」が伝わるわけがないのです。

「命」の大切さは「死」が支えているのですから。

そして、その「死」があるのは自然の中だけです。

人工的な世界の中には「死」はありません。死ぬのではなく、ただ壊れるだけです。「死」がないのですから「生」もありません。「命の大切」を訴えても、人工的な世界にはその根拠がないのです。

それに対して、自然の中で、自然と共に遊ぶ体験は「死」と「生」の体験でもあります。
自然は「死」と「生」の循環によって支えられているからです。
子どもたちはそんな自然の中で遊ぶことで「命の体験」をしているのです。

秋になると葉が落ちます。落ちた葉は腐って、木々の栄養になります。木の実の中に新しい命を宿して、大地に返します。
葉っぱも、木も、昆虫も、その他の生き物も全て死ぬと土に還ります。
土は「死」によって作られています。そして、新しい命を支えています。

春になると、木々は新しい芽を芽生えさせ、大地は草花を目覚めさせます。
動物や昆虫も活動を始めます。赤ちゃんや卵を産む生き物もいっぱいいます。

そして、生き物は生き物を食べて生きています。人間も同じです。
それが「自然」です。

だから、「自然の中で遊ぶ」ということは、そのまま「命の循環と関わる」と言うことなんです。当然そこには「死」もあります。取ってきたザリガニも、セミも、カブトムシも気がつくと死んでいます。

摘んだ時にはきれいな花だったのに、しばらくすると枯れて茶色になります。

でも、人工的な社会のなかで、人工物に囲まれて、人工的なオモチャでばかり遊んでいる子は、「死」どころか「生」にも「命」にも触れる機会がありません。

そのため、大地や、自然や、命というものにたいしてリアリティーを感じることが出来なくなってしまっています。
むしろ、そういうものに対して、恐怖を感じる子たちすら増えて来ています。

大人も子どもも「自然は汚い」、「自然は怖い」と感じる感性が当たり前になりつつあります。小さな虫にすら恐怖を感じて大騒ぎする子もいます。(大人も)

「殺せ 殺せ」と小さな虫を追い回す子もいます。
また、子どもたちですら、ゲームの中では平気で人殺しをしています。

「死んだカブトムシ」を持ってきて「カブトムシが壊れた」と言った子もいたそうです。「死ぬこと」と「壊れる」ことの違いが分からないのです。

そのような状態の子が、自分の命や人生を大切なものとして感じ、大切なものとして生きるのは難しいのではないかと思うのですが、考えすぎでしょうか。





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Last updated  2019.10.17 08:38:20
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Re:「子どもを自然から遠ざけないで下さい」(命の大切さを伝える)(10/17)   フィービー さん
「繋ぐ」という事の大切さをとても痛感します。

親の価値観を子供に押し付けてはダメ、子供の意思を尊重する、という最近の風潮のせいか、それを表面的に受け取っている場面が多いように感じます。
良くも悪くも意図していなくても子供は親の価値観を日々の些細な諸動から受け取っていると思います。

朝の子供達の見守り活動をしていて、9時近くにやっと登校してくる子供達がたくさんいます。聞くとお母さんがまだ寝ている、朝早くから仕事に行ってしまっている、というのが多いです。
各家庭でそれぞれの事情があるのかもしれませんが、そんな子供達は大抵学校でも落ち着きがなく、友達同士ですぐにキレて、こちらが注意したり、何があったのか事情を聞こうとすると「うざいから」「ほっといて!」と言って殻に閉じこもります。心の闇をすごく感じます。子供達のこれからがとても心配です。

生活を支えるのは生きることにおいて重要な事ですが、それ以上に子供の未来に温かさを繋げていく事の大切さを考えていかなければならないと思います。 (2019.10.17 09:43:04)

Re[1]:「子どもを自然から遠ざけないで下さい」(命の大切さを伝える)(10/17)   森の声 さん
フィービーさんへ

>生活を支えるのは生きることにおいて重要な事ですが、それ以上に子供の未来に温かさを繋げていく事の大切さを考えていかなければならないと思います。

同感です。 (2019.10.17 09:47:40)


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