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昨日は、
真似る過程で「体験」が発生します。そしてその体験によって、「見ただけの学び」が「自分自身の学び」へと変換されていきます。 と書きましたが、ここで重要なことは「実際にやってみる体験」の前には「見るという体験」が絶対的に必要だということです。 子どもたちに「遊びの体験」をさせたいと思って大勢子どもを集めて、「遊び方の説明」をして遊ばせようとしても、それだけでは子どもたちは遊べないのです。 実際に遊んでいるところを見ていないので、遊びのイメージがつかめません。また、楽しそうに遊んでいる姿を見ていないので「遊びたい」という動機も生まれません。やっている所を見せても、お手本でやっている人が仲間ではなければ参加したいと思いません。 昔の子どもは、まだ遊びに参加できない幼い頃から「遊びの現場」にはいて、大きい子達が遊んでいる姿を見ていました。そして、ちゃんと遊べない子でも、参加したい子は「おみそ」という形で特別ルールで参加させてあげました。 でも最近の子は、遊べない子に対して「おみそルール」を作ろうとすると「ズルイ」と言って受け入れてくれません。そして、強いものがいつも勝つような遊び方ばかりをしようとします。 また今では、子どもが「子どもが屋外や自然の中で自由に群れて遊んでいる姿」を見ることが出来ません。また多くの子が、コマや竹馬といった「簡単でも便利でも刺激も強くないオモチャ」で遊んでいる所も見たこともありません。 だからそういう遊びにあこがれを感じません。学校などでは授業の一環で「昔遊び」などもさせてくれるようですが、その時は楽しんでも、家に帰ってまでもやろうとはしません。 見てあこがれを感じた後で体験するから、体験が身になるのです。体験から学べ、楽しくなるのです。 これは遊びだけではなく全ての学びにおいて同じです。 お母さんが楽しそうにお料理や家事をやっている姿を見て、子どもも一緒にやりたがるのです。 お母さんや周囲の大人が楽しそうに何かを作っている姿を見て、子どもも作ることが好きになっていくのです。 私は家では造形教室をやっていますが、お母さんやお父さんが作ることが好きな家の子は、大抵、その子自身も作ることが好きです。(おじいちゃんが作ることが好きという子もいます。) お母さんやお父さんが生きることを楽しんでいる家の子は、子ども自身も楽しそうです。 お母さんやお父さんが学ぶことを楽しんでいるのなら、子どももまた学ぶことに喜びを感じるようになるのです。 でも、お母さんやお父さんが「自分がやっていること」を楽しめていないのなら、子どもは「それ」から逃げようとするでしょう。 子どもを追い立てたら余計に嫌いにさせてしまうだけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.03.31 06:44:39
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