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最近「心」と「からだ」がちゃんとつながっていない人が多いです。
そのような人は、「からだ」を道具のように使い、頭でばかり考えて判断し、行動しています。でも、実際にこの現実世界に存在し「私」と「世界」をつないでいるのは「頭」ではなく「からだ」の方です。「生きる」ということの現場に居るのは「からだ」なんです。 でも、心とからだがつながっていない人は、「からだの声」を聞こうとしません。そして、「頭(心)」が指示命令を出して「からだ」を動かそうとしています。 それは例えば、現場の声に耳を傾けずに、頭の中だけで創り上げた机上の空論を現場に押しつけているようなものです。でも、そんなやり方でうまく行くはずがないのです。 必ず現場が破綻するか、サボタージュを起こすか、手抜き作業が起きるか、流れが停止してしまいます。事故も起きるでしょう。 これが、「心」と「からだ」がつながっていない人の状態です。 このような状態では当然ストレスやイライラが溜まります。いくら頑張っても空回りばかりして何も実現できません。 現場(からだ)は改善されないし、指示や命令を出す人(頭・心)も何も学べません。そして、度を超せば現場が崩壊します。つまり、病気と言う形でからだがサボタージュを起こすのです。で、思い通りに行かなくなった「頭(心)」の方もパニックになります。心の病に罹る人も多いです。 このようなことが起きないようにするためには、ちゃんと現場の声に耳を傾ける必要があるのです。トップが現場の声に耳を傾けているから、現場もまたトップの声を聞くようになるのです。 そこで必要になるのが「言葉」なんです。 「現場の声を聞く」という場合も言葉が必要ですが、実は「からだの声を聞く」場合にも言葉が必要なんです。 「言葉のようなもの」という例えではなく、リアルに「言葉」です。 なぜなら人が「自分のからだ」を認識出来るのは、「からだのことを言い表す言葉」を持っているからなのです。人は、言葉を持っていないものは認識出来ないのです。「時間」という言葉を持っていない部族の人は「時間」を認識出来ないのです。 それは、「木」でも、「水」でも、「愛」でも、「希望」でも、「死」でも同じです。 「手」という言葉を持っていない人は自分の手を認識出来ないのです。実際には、そこまでひどい人はいませんけど、自分の「肩甲骨」や「仙骨」を認識できない人は多いですよね。 以前ワークをやったら、自分の「足」や「肺」を認識出来ない人がいました。 目を閉じて「自分の足を感じてみて下さい」と言ったら「足がありません」と言ってきた人もいました。それで私が、足の指一本一本に触れ、これが親指、これが人差し指、これがかかと、これがすねと、触られている場所を言葉化していきました。 かかとを触れられているときの感覚と「かかと」という言葉がつながるとき、人は自分のかかとを認識出来るようになるのです。 「からだの使い方」でも同じです。「つまむ」とか「ねじる」という言葉を知らない人は、そういうからだの使い方を認識出来ないのです。 この場合の「言葉」は「知識としての言葉」ではありません。「ちゃんと実体とつながった言葉」です。人体図を見せて「これが手だよ」と教えられた「手」は、「知識としての手」であって、「自分の手」ではありません。 ですから、知識としての「手」しか知らない人は「自分の手」を認識出来ないのです。 自分の手を認識出来るようになるためには、「手をつなぐ」「手をさする」「手を合わせる」「手で握る」「手を温める」、そういう実体験とつながった形で「手」という言葉を学ぶ必要があるのです。 そのような体験を通して学んだ「手」という言葉は、ちゃんと「頭(心)」と「からだ」をつないでくれます。 「頭(心)」と「からだ」がつながるためには、「知識としての言葉」ではなく、「自分自身の感覚とつながった言葉」が必要なんです。 でも、現代人は「知識としての言葉」はいっぱい持っていますが、「自分自身の感覚とつながった言葉」を失ってしまいました。 だから「頭(心)」と「からだ」がバラバラになってしまったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.09.21 08:06:52
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