森へ行こう(心とからだと子育てと)

2024/04/26(金)09:20

「自由は自分の努力で手に入れるものです」(与えてもらった自由は不自由になります)

昔の子ども達は、家族や地域といった「大人の群れ」の中に生まれ、「大人の群れ」の中で育っていました。 その「群れ」にはそれなりに色々な束縛がありました。「群れ」を維持するための束縛です。みんなが好き勝手にやっていたら「群れ」は維持できないのですから。 「しつけ」はその「群れ」を維持するためのものでもありました。 でも、現代社会のように簡単で便利な機械や道具やインフラがなかった時代には、「群れから離れる」ということは生活できなくなるということを意味していました。仕事も出来なくなるし、安全も確保出来なくなります。群れから離れた途端に社会的な地位も消えます。 どんなに大きな会社の重役だった人でも、会社を辞めたら「ただの人」です。 (そのことを自覚できなくて、「俺は昔・・」と威張るお年寄りも多いみたいですけど。) そのためみんな「群れを維持するための束縛」を受け入れていました。不自由さも感じてはいたでしょうが、「生きるとはそういうことだ」という諦めもあったでしょう。 でも、社会の近代化と共に、その「群れ」の形が大きく変わってきました。現代社会でも、生きていくためには群れとのつながりは必要なんですが、昔のように「顔と顔を合わせるような直接的なつながり」がなくても、様々な電子機器を通して間接的につながるだけでも生きていけるようになったのです。 今ではインターネットのような電気的な回線が人と人をつないでくれるようになりました。インターネットとつながっていれば、他の人と顔を合わせなくても生きていけるようになりました。欲しいものがあればネットで注文すれば届きます。時には注文したその日に届くこともあります。インターネットが使えれば、家にいたままでも仕事が出来ます。勉強も出来ます。遊ぶことも出来ます。 その流れの中で、しつけの目的も「社会性を育てる」ことから「お母さんの言うことをよく聞くよい子を育てる」ことに変わりました。 相手の顔を知らなくても、相手の声を聴いたことがなくても、相手に触れたことがなくても、顔を見合わせて一緒に笑ったことがなくても、仕事も遊びも出来るようになったのです。なんと便利な世の中になったのでしょうか。 昔は、学校を休むと友だちが連絡帳を持ってきてくれましたが、今では、そういうシステムは必要ありません。そもそも、個人情報保護の観点から、学校が友だちの家の場所を教えてくれないそうです。連絡だけならスマホに送れば済んでしまうのですから。 昔は、友だちと遊ぼうと思ったら友だちの家に行って「○○ちゃん、あそぼ~」と大きな声で呼びかける必要がありましたが、今ではそんなことしなくても、お互いに自分の家の中にいたままの状態で遊ぶことが出来ます。 これなら交通事故や犯罪に巻き込まれる危険性も消えます。お母さんも、我が子の行動を監視、管理することが出来て安心することが出来ます。 私たちは、なんと素敵な社会に生きているのでしょうか。 テレビも、企業も、マスコミも、政治家もその素晴らしさを謳い、もっともっと簡単で便利で安全な生活が実現できるように人々を煽っています。マイナンバーカードなどのシステムもその一環です。河野さんもその素晴らしさばかりを強調しています、 でもなぜか、そんなに素晴らしい社会の中で暮らしているのに、心を病む人たちが増えて来ました。自己肯定感が低い若者も増えて来ました。 精神的に自立できない子ども、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する事が出来ない子どもも増えてきました。 最近の子ども達は、群れによって束縛されていた昔の子ども達よりも遙かに自由になったはずなのに、なぜか、自由に生きることが出来ない子ども達が増えて来たのです。 森や野原に連れて行って「自由に遊んでいいよ」と言っても何も出来ません。簡単で便利な機械に取り囲まれて生活している現代っ子には、「自由」はただ退屈なだけなようです。 そのため束縛は嫌いますが自由を求めることもありません。そんな子ども達が求めているのは「自由」ではなく「退屈を紛らわせる刺激」だけのようです。そして、自ら「自分の自由」をその「退屈を紛らわせる刺激」に預けてしまっています。「ゲーム」はその象徴です。 どうしてそういうことが起きてしまったのかというと、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力が育つためには「不自由」が必要だからなんです。 社会性を育てるためには「群れとつながることから生まれる不自由」が必要になります。 「考える力」を育てるためには、「考えなければ乗り越えることが出来ない不自由」が必要になります。 「感じる力」が育つためには、「感じなければ乗り越えることが出来ない不自由」が必要になります。 「行動する力」が育つためには、「行動しなければ乗り越えることが出来ない不自由」が必要になります。 でも、不自由があるだけでは子ども達は不自由から逃げようとしてしまいます。そのため、その不自由を楽しむことを教えてくれる大人が必要になります。 そんな「不自由を楽しむ大人」がいなかったから、子ども達は不自由を避けるようになってしまったのかも知れません。 他の人とつながらなくてもいい、考えなくても、感じなくても、行動しなくてもいい生活をしていたら、子ども達は「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」を育てることは出来ないのです。歩く必要がない生活をしていたら歩けなくなってしまうのです。 でも、簡単で便利な機械やインフラの発明はそのような便利な生活を実現してしまいました。 それを「素晴らしい」と感じる人もいますが、少なくとも子どもの育ちにはよい影響を与えていないようです。 ちなみに、なんで子ども達はゲームに夢中になるのかというと、そこに「頑張れば乗り越えることが出来る不自由」があるからです。問題は「ゲームの中で得た能力」が有効なのはゲームの中だけに限られてしまうということです。 もっとも、頑張ることが苦手になってしまっている最近の子ども達はその「ゲームの中の不自由」すらも、自分の努力で乗り越えようとせず、課金をして楽に乗り越えようとしてしまうようです。教室の子ども達の話を聞いていても、結構な数の子ども達が課金をしているようです。

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