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子どもの育ちには「体験」が不可欠です。その体験とは「自分と出会う体験」「他者と出会う体験」「自然と出会う体験」の三つです。
「野球体験」でも、「サッカー体験」でも、「ピアノ体験」でもありません。 実際、そのようなものをやったことがない人や、そのようなものがない時代、地域でも、人間として素晴らしい人はいっぱいいるのですから。逆に、そのような能力に優れている人でも人間的には問題を抱えている人もいっぱいいます。 「子どもの育ちを支える」という視点で野球や、サッカーや、ピアノを教えている指導者なら、これらの体験をうまくその指導の中に織り込んでいるかも知れませんが、ただ、「勝つための野球」「勝つためのサッカー」「上手になるためのピアノ」にしか興味のない指導者なら、かえって子どもの成長を阻害するような体験しか与えることが出来ないでしょう。 そういう点から、「五輪やパラリンピックに出場経験があるアスリートを、学校の教員として採用を促進する」という文科省の方針には反対です。学校は「子どもの成長を支える場」であって、「アスリート養成所」ではないのですから。 子育てや教育のことに関して言えば、政治家の発想は的外れのことが多いです。政治家には「競争に勝つことを目的とするような教育」を受けて育った人が多いのでしょうか。それとも、政治家になりたいと思うような人は、もともと「勝ち負け」にしか興味がないのでしょうか。 「体験」が子どもの成長を支える働きをするためには、その体験の中に「フィードバック」が存在している必要があります。何かを体験しても、そこに「フィードバック」が存在していないのなら、その体験は「子どもの育ちを支える力」にはならないのです。 「高い所から飛び降りてケガをする」、「他の子が嫌がることをして殴られる」などということはよくあることですが、その体験が「子どもの育ちを支える働き」をするためには、「自分が受けた結果は自分がやった事の結果だということに気付く必要がある」ということです。それが、私が言っている「フィードバック」という言葉の意味です。 AIもまた、この「フィードバック」を使って学習しています。AIはフィードバック」を通して自分の能力を高めることが出来る能力を持っているシステムなんです。そしてこれは人間のやり方を模倣させたものです。 そのため、自分の想い通りに行かないことがあると、簡単に「人のせい」や「何かのせい」にしてしまうような子は、どんな体験を与えても成長することが出来ません。 自分の不運や不幸を「○○」のせいにして、「○○ガチャ」と言ってしまうような人も同じです。でも、そのような感覚の人たちが増えてきています。 上手く行っても、上手く行かなくても、その結果とどう向き合うのか、その結果から何を学ぶことが出来るのかということが重要なんです。それが「自分体験」ということでもあります。 そして、子どもの自由意思に基づく自由な遊びの場ではそういう学びが自然に起きているのです。 でも、指示や命令で動かされているばかりの子にとっては、上手く行っても、上手く行かなくても、それは自分の責任ではありません。上手く行けば「指導者ガチャが良かった」、上手く行かなければ「指導者ガチャが悪かった」というだけのことです。 ですから、子どもの成長と支えたいと思うのなら、子どもが何かを失敗した時でも一方的に叱ってはいけないのです。「どうして失敗したんだと思う?」と、問いかけた方がいいのです。 子どもが成績が悪くて悩んでいるのなら、勉強に追い立てるのではなく、「どうして成績が悪いんだろうね?」と問いかけるだけでいいのです。 ただし、成績が悪くても悩んでいない子にはこの問いかけは無意味です。無理やり勉強させても逃げるだけです。 そのような子に勉強させたいと思うのなら、「勉強する目的」を見つける手助けをしてあげることです。 その時に必要になるのが「他者体験」です。子どもは他者と出会い、つながることで「自分の生き方」を見つけることが出来るのです。 自分の部屋にこもって一人でゲームばかりしていたら、「自分体験」も「他者体験」も「自然体験」も出来ないのです。 そういう子が「ガチャ」という発想をするのではないかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.11.07 06:44:01
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