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今、「新しい学校」を作りたいと思っている人がいっぱいいます。そして実際に「新しい学校」を作るために活動している人もいっぱいいます。私の周辺にもいます。
ただ、その時に気を付けなければならないのは、熱心な人たちが、どんなに頑張って「その人たちにとって理想的な学校」を作っても、「理想は人それぞれ」だということです。 「シュタイナー教育」が理想だと考える人もいれば、「モンテッソーリ教育」が理想だと考える人もいます。また、他の教育法が理想だと考える人もいます。理想よりも現実に合わせた教育を求める人もいます。 「大人の理想」と「子どもの理想」も同じではありません。 また、その時は「理想」であっても、学びや体験を経て「理想」が変わることもあります。「子どもの時の理想」が大人になったときも理想であるとは限りません。 小説「大地」を書いたパール・S・バックは、若い時は「性善説」を信じていたそうですが、様々な体験を経て「晩年は生悪説に変わった」という話も読んだことがあります。それに伴い「理想」も変わったでしょう。 また、「立ち上げた人たちの理想」が、必ずしも「その学校を受け継いだ人たちの理想」と同じであるとは限りません。会社でも、創業者には「創業者の理想」があり、二代目には「二代目の理想」があるかも知れません。 まただから、キリストは一人でも、2000年以上の時を経て、今ではカソリック、プロテスタント、ギリシャ正教などの様々なキリスト教があるのです。 また、お釈迦様は一人なのに、その教えを伝えた仏教は日本だけで、法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、 日蓮宗、などといっぱいあります。 小乗と大乗にも分かれています。 詳しくは知りませんが、シュタイナー教育でも色々な考え方をする人がいるようです。 ですから、「万人向けの理想の学校」などと言うものは存在しないし、そのようなものを作るのは不可能なんです。 ただ、この様に様々な形に分かれても、目指している所は、ほぼほぼみんな同じなのではないでしょうか。 ただ、そこに至るまでの過程の理解と、方法論が違っているので、様々な派や宗に分かれてしまったのでしょう。 その目指しているところは「幸せ」です。どの宗教もどの派でも、みんな「幸せ」を目指している点では共通しているのです。 ただ、一人一人「求めている幸せの形」が違うのです。それは人が10人いれば、「10通りの異なった幸せの形」があるということです。 社会的に成功することの中に幸せを求める人がいます。 自己実現をすることの中に幸せを求める人がいます。 お金をいっぱい得ることの中に幸せを求める人がいます。 快楽の中に幸せを求める人がいます。 愛する家族や仲間に囲まれることの中に幸せを求める人がいます。 生命の真理、宇宙の真理を知ること、またそれとの一体化の中に幸せを求める人がいます。 まただから求める宗教や教育法にも色々とあるのです。 モンテッソーリ教育が目指している「幸せの形」と、シュタイナー教育が目指している「幸せの形」も違います。 ただ言えることは、「自分だけ幸せになることは出来ない」ということです。 お金をいっぱい得ることの中に幸せを求める人は、宝くじで高額が当たればその時は幸せを感じるでしょう。でも、その幸せは長続きしません。 宮沢賢治は 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない と言いましたが、私も同じ意見です。 この世界には、色々な価値観、色々な考え方、色々な宗教の人がいます。そういう人たちがみんな幸せに生きることが出来るようになるためには何が必要なのでしょうか? どういう教育が必要なのでしょうか? 私にも正解は分かりませんが、大切なのはそれを問い続けることなのではないでしょうか。 私が学校や教育に求めているのは、「理想的な教育の形」ではなく、子どもの笑顔、周囲の笑顔を見ながら、「何が正しいのか、これでいいのかということを常に問い続けることが出来る学校や教育のあり方」です。また、その「問い続けること」を基本理念としてしっかりと据えた教育法が私にとっての理想の教育法です。 「これが正解だから、これを覚え、この方法に従いなさい」と押しつけるような教育方法は私は嫌いです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.11.29 09:00:37
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