『アストロノート』 時代の主体
『アストロノート』という詩集がある。作者は松本圭二である。 昨年の話題作であることは間違いない。私より一回り上の世代は高く評価している。「現代詩手帖」1月号の瀬尾育生・稲川方人対談を見よ。確かにすごい詩集である。まず量がすごい。それだけでなく、書くエネルギーというか、欲望がすごい。圧倒的な力で押し切るところは、ここ数年でも群を抜いている。散文的意識と詩的意識をかき回して、混沌とした何かを提示しようとしている。 しかし、どうしても私は納得できない。読んですごいとは思うが、危険なものも感じる。多分、私の詩の主体の意識と、松本のそれが合わないのだろう。瀬尾さんや稲川さんには、それが私の保守的なところだといわれそうだが、詩の主体の意識は書くことの、あるいは大げさだが生きることのといっても良い、本質にかかわる問題である。ないがしろにはできない。危険を感じるのはなぜかまだ明確になってはいないが、多分言葉の暴力性と、主体の世界との対峙の仕方と関係があるだろう。そのことは主体のうちの他者の問題ともつながる。 前詩集『アマータイム』のときも書いたが、松本の詩は萩原恭次郎の『死刑宣告』を連想させる。その意味では、時代を画する傑作かもしれない。だが、言葉の暴力の問題は残る。言葉の暴力がすべて悪いのではない、問題はその質だ。 この詩集を全面的に否定したのは、私の知っている限りでは城戸朱理さんだけだ。城戸さんは自分の詩の主体をよく知っている。さすがである。 『アストロノート』は松本が全身全霊を注ぎ込んでいる。私も批判したいのだが、現状では残念ながら私の批評の足腰が弱い。しかし、批評の足腰を鍛え、何らかの批判はするつもりだ。今年後半か、来年になるかは分からないが。 他の方は、『アストロノート』をどう思いますか。コメント等いただければ幸いです。