2012/02/04(土)11:42
厄払い
今日は休みを取り厄払いに行った。
どうも、難病とかになると、神経質というか縁起を担ぐというか何かに頼りたいとい気持ちになるというか、こういうのが気になるものである。
健康な人は全然理解できないだろうが、分かる人は分かると思う。
ついでに、うちの子どももお祈りをしてもらう。
ちなみに、久々に靴を履いた。
足が不自由になって以来、クロックス等のサンダル系か、かかとを踏めるリハビリ靴等を履いていた。
それだけに新鮮だった。
今まで”普通の”靴を履くのを避けていたのは、履けないからだ。
靴を履くには、足の先を靴の中に徐々に入れていくことが必要だ。
このとき、足首や膝、多分、股関節等の筋肉を微妙に調整して履いているらしい。
しかし、私の場合、足先を靴に入れるまでは良いが、そこから靴の中に足を入れられない。
力が足りないのである。
どうしても履こうとすると、地面であっても座って手で補助をしないと履けない。
そうするのは、手間がかかるし疲れるため、しなかったのだ。
しかし、それにしても、靴を履くという些細な行為であっても、いわゆる普通の人と同じことをする、できるというのは、ある意味、誇らしい。
場所は、妻が小さい頃からお世話になっている隣県の山の上のお寺である。
このところの寒波で、雪で路面が凍結していないかと思ったが、意外と雪は消えていた。
良かった。
厄払いに来て、車の事故を起こしている場合でない。
節分の祈祷とかで、今日のお寺は、賑わっていた。
山の下の駐車場から、山の上のお寺まで、檀家(信者)の人が、車でピストン運送してくれていた。
山の上について、妻と子を待っている間に、足が痙攣して転んだ。
厄払い自体は、短時間で終わった。
5~6人の僧侶が、祈祷を受ける人の四方にいて、お経を唱え、法具で背中をなぞったりする。
お経が響く中のことで、厳かな感じはした。
そのお経を聞く中で、ふと、
「うちの家族の中で、自分が一番、重荷になっているのでは」
とか、
「自分がいないほうが、家族全体としてはプラスでは」
とふと思ったのが、記憶に残っている。
自分でも意外だが、今まであまりそう考えたことはなかった。
これは恐ろしいことだと何とか思いなおす。
祈祷後、お札をもらい、下山する。
これで、無事に過ごせますように。