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カテゴリ:歴史秘話
物語後半は米軍による日本本土初空襲へと展開します。 ドーリットル中佐率いる陸軍の爆撃機を航空母艦に積んで、 艦隊は日本近海へ向けて進撃。 ところが、発進予定地点よりも手前で日本軍に発見されてしまう。 このため急遽予定を繰り上げ、爆撃機を直ちに発進させ、日本本土へと向かいます。 劇中では、「日本軍の巡洋艦に発見された」と描かれていますが、 実際は”漁船”でした。 今回はその”漁船”の話です・・・ その”漁船”は、日本海軍の「特設監視艇」と呼ばれたものでした。 広大な太平洋を日本に向かって西へ進んでくる敵艦隊を いち早く発見し、無電で報告をする。 そのために民間から遠洋漁業用の底曳網船や鰹鮪船などの漁船多数を徴用。 乗員の半数は海軍軍人、半数は軍属となった漁船員でした。 若干の武装と強力な無線機を搭載しただけの事実上”漁船”を、 犬吠崎の東方約700カイリに「特設監視艇」として配備します。 これらわずか数十トン~100トンほどの小型船多数が、 太平洋の大海原で木の葉が揺れるが如く波にもまれながら、 日々過酷な哨戒任務についていたのでした。 そして最も悲劇的なのは、貧弱な装備を付けただけの”漁船”では、 敵を発見することがイコール自らの”死”を意味したことです。 彼らの最大の任務は、敵艦隊を発見後、攻撃を受けて撃沈されるまでの間に、 敵情を出来るだけ正確に、より多く司令部へ打電することでした。 敵の軍艦に対して何ら有効な反撃手段を持たないこれら「特設監視艇」は、 まさに「特攻人間レーダー」と呼ぶべきものでした。 「第二十三日東丸」 そして1942年4月18日。 特設監視艇「第二十三日東丸」が上記米艦隊を発見。 直ちに無電第一報を発します。 「敵飛行機三機見ユ 針路南西、敵飛行機二機見ユ」 続いて、 「敵航空母艦三隻見ユ」 と、敵艦隊の接近を報告。 この「第二十三日東丸」は、果敢にも機銃1丁で米艦隊に接近、 矢継ぎ早に無電を発していく。 しかし、米艦隊の938発にも及ぶ砲撃により30分ほどで沈没。 乗員14名は全員戦死してしまいました。。。 さらに、付近にあった「長渡丸」も 「敵艦見ユ」を打電後撃沈されます。(5名が救助され捕虜に) 結果、日本側ではこの決死の報告にもかかわらず有効に迎撃出来ず、 この日、東京・横須賀・川崎・名古屋・四日市・神戸は、はじめての空襲に遭います。 被害は死傷198、家屋全壊181戸に上ったそうです・・・ 正規の海軍軍人よりも損害率が多かったといわれる これら徴用船舶の乗組員たちの悲劇も忘れてはいけないと思います・・・ 蛇足・・・ これらの監視艇の犠牲により、米側にも大きな影響が出ます。 左:ドーリットル中佐 右:ミッチャー海軍大佐 後:B-25搭乗員 ドーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機は、 予定では本土から500カイリの地点で発進するはずでした。 ところが700カイリ以上の地点で発見されてしまったため、 夜間の奇襲爆撃の計画を昼間の強襲爆撃へと変更せざるを得ませんでした。 そして爆撃後日本本土を横切り、昼間に中国本土の飛行場へ帰還するところが、 映画で描かれた通り夜間の着陸となり、 ウラジオストック不時着が1機、 中国本土に辿り着いたのが15機となります。 (11機が落下傘降下で脱出、4機が不時着) しかし日本軍占領地域にあって捕虜となってしまった者が8名おり、 このうち3名が本土空襲への”報復”として銃殺刑に処されてしまいます。 一方、上記「長渡丸」乗組員の生き残りは、 酒巻少尉(真珠湾の特殊潜航艇)に次いで、 ”捕虜第2号”となったのでした・・・ また、ドーリットル爆撃隊で捕虜となった者の一人に ジェイコブ・D・シェイザー伍長がいます。 彼は終戦時に救出されるまで過酷な収容所生活を送ります。 その間、聖書に救いを求めて命をつなぎました。 そして戦後の1948年に再び来日します。 その時彼は恩讐を越えて、宣教師として来日したのでした・・・ ドーリットル空襲秘録 大空の覇者ドゥリットル(上) 大空の覇者ドゥリットル(下) 背中の勲章 福井静夫著作集(第11巻) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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