写真うつりの良し悪しはカメラマンで決まる
私は下手の横好きだが、動くものの写真を撮るのが好きだ。特に、趣味で沢山撮っているのがF1レース。ドライバーが命のぎりぎりを削って走る姿は壮絶であると同時に美しい。そして究極メカの権化のF1カー。運転するソフトとしての生身の人間の存在感を伺わせない硬質のボディは、世界最高の技術と科学の粋。メカとしては究極の美。生き物のドライバーと究極美のマシン、このアンバランスでありながらも、並べば美を感じさせるコントラストに惹かれ、毎年鈴鹿へ、重い機材を引っさげて駆けつける。そしてサーキットをうろつき、心臓の鼓動を速くして、胸ときめかせてファインダーを覗く。堪えられないほどの煌めきのシーンの数々が、あっという間もない時間、1秒が永遠と思えるほどの短い時間に、どんどんと展開され時々刻々と変化してゆく現実ドラマ。写真を撮っているときの自分は、無我夢中でありながらも、頭の芯は結構冷静。ファインダーを通して伝わるシャッター音が私の心を躍らせ、体を緊張させるが、すべてがスローモーションの様に動いて見える。シャッターを切らねばならない瞬間を、自分の本能が教えてくれる。タイミングがばっちり合ったとき、思う瞬間が撮れたと感じたときの手ごたえは、目の中に残る残像(正確には頭の中に残る残像・・・)が、至福の満足感を与えてくれる、いい瞬間が切り取れた気がする・・・と。動くもの写真を撮るのは、そんなわけで面白くて癖になる。もうひとつ究極が、ロックコンサート。チャンスはめったに無いが、過去に5回ほど撮ったことがある。日本のライブハウスで2回とホ-ルで1回、韓国のスタンディング会場で1回、アメリカのライブハウスで1回、全部Yngwieだ。ミュージシャンは、ステージで得も言われぬいい顔をする。オーラが全身を取り巻き、四方八方に放たれる。飛び散る汗が煌めく星のように、命のエネルギーを瞬かせる。大きな翼を広げた鷲のように、四方八方へと広がるオーラの感覚が会場全体を包み込み観客を飲み込むのを肌で感ずる。演奏者の、一瞬一瞬の表情を窺うとき、彼らの脳裏を巡る野生の本能にも似たひらめきが手にとるように判る。恍惚としているとき、怒っているとき、嬉しいとき、気持ちが良いとき、苦痛の時。これら煌めきの表情は、あまりに特別なものであり、ステージを降りた彼らには宿らないもの。一瞬が永遠とも思える至福の表情。そしてオーディエンスの表情も格別素晴らしい。ただし、この肌で感じるナマ生しさを写真で切り出すのは非常に難しい。ほとんど成功しない。満足できるステージ写真を写そうなんて、1000年早いのかもしれない。コンサートという特殊空間は、激烈に明るいライトとそれに照らし出されるミュージシャン、そして闇夜にうごめくオーディエンスで構成される。カメラの機材が安物(プロでも自分では買えないので、レンタルで借りてくるような高級機材を使っている)おまけに素人で技術の未熟な私には、何百枚シャッターを切ろうとも、良いなって思えるのは1ステージほんの数枚ほど、リラックスしているリハーサルの時の方が上手く写真が撮れたりする。コンサート写真は難しすぎる。人物写真考一旦、コンサートやレース場でのドライバーなど、生きた表情を持つ人間を追い、その一瞬のドラマを切り取るようなシャッターの切り方をしてしまうと、私には、ポーズをとって構える集合写真やポートレートを、上手に撮ることができないと思ってしまう。そこそこの機材を持っている関係で、結婚式の写真係を、たまに頼まれる。そういうシチュエーションで撮った写真の仕上がりを観て、つくづく思う。集合写真やお雛様状態の写真は、撮るほうも撮られるほうも魅力があまりない。むしろ、歩いているとき、披露宴会場に入った瞬間、あるいは教会で式が終わって、みんなに祝福されてながら出てくる時、花びらやお米をかけられてるとき、こういう状況での花嫁・花婿さんの至福の表情が、私は大好きだ。だから、結構自慢できる写真が撮れているときが多い。みんなで並ぶポーズ写真は逆に苦手だ。なんとなく、何時シャッターを切っていいかがわからなくなる。時間を使えば使うほど、みんなの良い表情が消える。だから私は、みんなが揃ったら、そこそこ決まってないままでもいきなりシャターを切る。そうすると大概クレームが出るが、そこで再度気合を入れさせて、2枚ほど続けて撮る。が、まあ1回目も2回目も仕上がりに大差はない。むしろ1回目の方が主人公がいい顔していることが多い。そう、何が言いたかったかというと、森川さんの写真。観ていいなと思うのが全部ステージ写真。特にシャウトして歌っているとき。収録現場などで、みんなと並んでポーズをとっての集合写真に収まっている彼は、何時観ても、どれを観ても、本当の彼には見えない。借りてきた猫。だが、時たま、はっとするようないい表情の写真がインタビュー記事で載っているときがある。そういう写真が載っているインタビューは、話の内容までが興味深く面白い物である事が多い。彼から良い話を引き出せたインタビューアとカメラマンの仕事が連動していると思える。『ぱふ誌』の2002年3月号(←修正)の森川さんのロングインタビュー。おそらくしゃべっているところだろう、斜めから彼を撮った一連の写真が素晴らしい。それは得もいわれぬ良い表情をしている。やさしくて知的な顔、嬉しそうな顔。こういう表情をしている彼を切り出せるカメラマンは、彼の人柄をなんとなく判ってくれたのだと思う。こんな表情をさせるような雰囲気に話に持っていったインタビューアの腕のよさを感心する。そして、そんな写真を採用して掲載する雑誌の編集者にも愛を感じる。今月のB’sLogのインタビューも面白かったし、なかなかいい表情の写真も載っている。上手いインタビューだったと思う。人物の写真というのは、撮影者の愛や思いいれを、被写体に見出せれば、必ずや良い瞬間の顔を切り取れるのだと確信する。シャターを切る人は、被写体が誰かを知っているなら、次にどんな表情をするかだいたい予想がつく。だから、良い表情をしそうな瞬間がわかる。心の動きが伺えるから、だんだん気分が乗ってきているとか、嬉しい顔になってきたとか、不機嫌になっているとかを、理解する。どんな表情が次に来るかを予測できる。その予測の元にシャッターを切りまくるわけだから、良い表情が切り取れるのがあたりまえだ。プロのカメラマンでも、人物の表情がなんだかぜんぜんときめかない、ぶすっとした顔の写真しか撮らない人がいる。F1カーを素晴らしく綺麗に写すのに、ことドライバーの写真となると、変な表情しかない、きびしい顔、憮然とした顔ばかりの写真を撮るカメラマン。愛が無い。映画俳優の写真でもそうだ、ゴシップ雑誌でのスナップは、結構変な表情をしている事が多い、それは撮影者に愛がないからなんだと思う。逆に、完璧な仕上がりのプロのポートレートは、被写体を良い気分にさせながら動かして、もすごい数のシャッターを切る。瞬間のひらめきのような、良い表情を数撃ちゃ当る方式で切り出すやり方だ。だからこそ、一瞬の表情を捕らえた素晴らしい仕上がりになる。この場合、写される側もプロとしてそれなりの表情をしてみせるのだが。逆に、いい表情のドライバーの写真を山のように撮るカメラマンも居る。彼らは、ドライバーと個人的に知り合いになりコミュニケーションを通して彼らの人となりを知る、だから彼らはドライバーの良い表情をあらかじめ知っているし、シャッターを切る上手いタイミングを予知するのだろう。結論。もし自分の写真を誰かに撮ってもらうとき、必勝法は自分を知っている人に写真を撮ってもらう事だ。確かに、写真うつりの良し悪しには、自分自身の表情にも原因はおおいにある、だがやはりカメラマンの腕なのだ、アングルや構図などのテクニックではない、そんなものは自然な感性に頼っても十分だ。だが切り出す表情だけは、撮る人の腕とセンスが試されるのだと思う。