188154 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

子宮頸癌 子宮温存  トラケ後の妊娠

子宮頸癌 子宮温存 トラケ後の妊娠

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2012.12.31
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
今年もとうとう終わりますね

今年一年を振り返ると
本当に大変な一年でした

去年の今頃、一年後の自分が
こんなふうになっているなんて…

想像すらできませんでした

一年という時間。
すごいですね。。。。。


こんなに波乱な一年は
これまでに無かったと思います

子宮頸癌になった4年前…

あの年以上に、今年は
たくさんの涙があった一年でした



大切な人の死。

妊娠、入院、娘の誕生。


濃い、深い 一年でした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

6月11日。妊娠10週。

この日の検診で 、お腹の赤ちゃんの
出産予定日が分かりました


1月13日

この日は、父の誕生日

やっと、やっと授かった命の
出産予定日が
父の誕生日と同じだったことに
なにか ふしぎな「縁」みたいなものを
感じた私。

それと同時に、大丈夫!!!

そんな直感を、なんの根拠もなしに
感じたのを記憶しています


トラケ後の妊娠。

出血やつわり、高熱…と
トラブルも多く、今回の妊娠は
最初からヒヤヒヤの連続で
不安だらけだったにもかかわらず

なぜか

何があっても絶対に
この子は無事に産まれてくる!!


これまでに感じたことのない
強い「確信」に近いような感覚も
あった気がします


そんな、6月11日……。




父が 亡くなりました





父は人生を

自らの手で

終わりにしてしまいました。。。。



思いがけない 父の死



正直、半年以上たった今も
受け入れられないでいる自分がいます


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

3人きょうだいの末っ子で
子供の頃からお父さん子だった私。


大人になってからも よく
一緒にお酒を飲んだり、食事をしたりしながら

父親として、人生の先輩として
よきアドバイスをもらったりもしていました。



私が子宮頸癌になった時もそうでした。

癌と分かってから
子宮を残す可能性はないかと
必死で探す毎日。。。


子宮温存の手術、トラケ。


やっと見つけた希望も

まだまだ国内での出産数は少なく
手術している病院も少なかった当時

多くの医師にとって、それは
非現実的な話だったようです


例え温存できたとしても、子供を
授かるかどうかなんて分からない

リスクも高い

子供を産むことだけにこだわって
命をおとしていたら元も子もない

子供がいないわけじゃないのに
温存は諦めた方がいい

病気になったんだから、仕方がない…


そんな医師の言葉に傷ついて。。。


だけど私は

可能性があるのに、諦める
ということができませんでした

どうしても。




温存したい気持ち
子供を産みたいという気持ち

でも、残すことのリスク、恐怖。

絶対に死にたくない



全摘。。。

温存。。。


標準治療に従うのか
自分が信じる行きたい道を進むのか…


怖くて 一歩が踏み出せないでいる私を
理解し、応援し
背中を押してくれた、父




家族の理解と支えがあったから
今の私がいて
今の結果があるんですよね。。。

ここまで乗り越えてこれたのは
家族がいたから。


その一人である父の死を


悲しい。。。


その一言では表現できません

何より、父の人生が
そんなかたちで終わってしまったことが



悔しいです



そして、自分を責める気持ちが
消えません


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


私が子宮頸癌になった年


あの年も、大変な一年でした


私の病気

姉の子供の障がい

母の入院

父の脳梗塞…


父は後々、あの年のことを振りかえって

やっぱり、あの時 一番辛かったのは
私が癌になったことだった…と
語ってくれたことがありました。


ほんとに、心配かけたんですね。。。


あの年、いろいろなことが重なって
心身共にストレスがあったんだと思います

父自身も脳梗塞になりました


幸い、この時は後遺症もなく

1ヶ月の入院で、元気に退院し
良かった。。。と




それから約3年間

趣味の家庭菜園や卓球、カラオケ
いろんな人達と楽しく関わり

父は自分のやりたいことをして
充実した生活を送っていました




そんな父に私が異変を感じたのは
ちょうど今から一年前になります


どちらかというと父は
物静かで穏やかなタイプ

時々天然なところもあって
面白いことが好きな人でした


それが

何だかよく話すようになり
異常にテンションも高い
へんに正義感に満ち溢れていて
とても気が大きくなっていました

はじめは、よくしゃべるし
元気だな~

そんな程度にしか思っていなかったんですが

日に日に 父の様子は異常さを増していきました

やたら活動的になり、よく話し
でも、その話の内容が支離滅裂で

以前の父の性格からすると
考えられない言動や行動が目立ち始めました


脳梗塞の前兆?



何かがおかしい


私たちの説得で何とかなるんじゃないか

父自身が自分の異常さに
少しは気づいてくれるんじゃないか

元に戻るんじゃないか


私は何度も父と話しましたが
言葉が父に届くことはありませんでした

むしろ父の状態は悪くなり


早く、どうにかしなくちゃ。。。


父の人格が壊れていくことに
私は強い危機感を覚えました


娘の私が言うのもなんですが
父は人から嫌われるタイプではありません

いわゆる、いい人


今まで何十年
父が誠実に生きてきた結果だと思います


それが、ほんの短期間のうちに

父の本来の姿が無くなり
人格が壊れ

他人とのトラブルも多くなってきて…



変な人。

おかしい人。


そんなふうに父が他人から思われることだけは
避けたかった…

これまでの父が築いてきた
人としての価値を

人生の後半で、下げたくなかった…


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


父は「躁」に侵されていました

まさか。。。でした。。。。。


自分が癌になった時と同じくらい

なんで?
どうして? って。

父には一番、縁のない病気

私は、そう思っていました



後になって分かったことですが

脳梗塞の後、二、三割の確率で
鬱や躁などになるそうです。


脳梗塞の後遺症もなく
元気に充実した生活を送っていたのに…

三年もたっているのに…


でも

脳内では、少しずつ
何かが変化していたんですね


いつから。。。


もっと早く気づいてあげれば。。。



どうしようもないくらい
胸がいたかったです。





躁病の恐ろしさと
躁病患者の家族が

いかに、いかに 大変か。。。。

この苦しさを

父が病気になって、初めて知りました



藁にもすがる思いで
精神科の先生に相談にいった結果

できる限り早く入院させた方がいい
ということでした。


病気という自覚のない躁病患者を
入院させることは


とても、大変です。。。。

家族の決断と勇気が必要です。。。



入院当日は兄と姉にも来てもらい

父をなかば騙すようなかたちで
何とか病院へ連れて行くことができました


しばらくは一人部屋での治療

一人部屋と言うと響きはいいですが
実際は「独房」のような部屋でした

まさに、監禁状態。。。

外から鍵がかけられ、あるのは
トイレと布団のみ。

治療のためとはいえ、その部屋へ

父を入れなければいけない



例えようのない、罪悪感でした。。。



抵抗する父の腕を抱え
数人の男性看護師さんと兄が
その部屋へ父を入れました


兄は泣いていました。。。


後にも先にも、兄が涙を見せたのは
この時だけです

葬式の時でさえ、泣かなかった。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013.02.07 18:31:50
コメント(0) | コメントを書く


PR

カレンダー

コメント新着

もりたん(^-^)@ Re[11]:傷口の様子(01/05) はじまして(*^_^*)こうめさん 手術、お疲…
こうめ@ Re:傷口の様子(01/05) とつぜんすみません 私も腹腔鏡で最近手術…
もりたん(^^)@ Re[5]:一年後に♪(08/31) はじめまして☆まちこさん 6月にトラケ受…
まちこ@ Re:一年後に♪(08/31) 初めまして! 私も倉敷でトラケを6月に受…
もりたん(^-^)@ Re[3]:一年後に♪(08/31) こんばんは 手術、終わられたのですね 本…

カテゴリ


© Rakuten Group, Inc.