豊かさへの憧れ
私はあのような世界とは無縁の人間だと思っていた。数年前、縁あってバリのリッツカールトンに宿泊することができ、リゾートに対する考えがガラリと変わった。同時に、豊かな人たちが、どのように生活しているのか、どんな考え方をしているのかを少しずつ知るようになった。その後すぐに、私はそれまで考えもしなかったような家に住み(貸家だけど)、考えもしなかったような高級車(彼のだけど)に乗れるようになった。でも実質、お金が増えたわけでもなく、それどころか…という状況だったので、私はその、特に車の降って湧いたような贅沢に慣れることができずにいた。家はちょっと特異な家族構成のために、自分が選んだ最上のものだったけれど、車に関しては望んだわけでもなく、しばらくは慣れることができなかった。でも今は毎朝、その車を洗車して磨き、愛情をかけるようになった。かわいいので名前をつけ、話しかけさえしている。(爆)家については、家主の意向で秋までには出なければならない。にもかかわらず、愛着があり、妙にしっくりくる。この家に住む以前は全くしなかったこと、例えば、植物を植えたり育てたり、向かいの空き家の敷地まで掃除をしたり、ということもしながら、まるで自分の家のように愛情をかけている。もし自分が所有する家だったらと想像すると、町内会など地域のことまでしたい、とすら思うほどだ。この家に至るまで、そして住んでからも多くの紆余曲折があった。これからどこへ行くのだろう、と考えるとき、明確なビジョンがなく、不安がある。私たちは私たちの居るべき場所があり、そこに戻るべきではないだろうか、と思うこともしばしばだったし、彼と別居してお互いの人生をやり直すことも幾度となく考えたり、口にした。けれども、そうはならないように思う。こんなとき、私は何をしたらいいのか、毎日のように考える。人生は毎日が選択の連続だし、考えていることが現実になる、とつくづく思う。焦ることもないとは思いつつ、何かを決めなければならず、決められなければ流れに任せるしかない。今の私には、ここを信頼に任せ、次をつかむ、ということしか思い浮かばない。ただ私は、どのようになりたいのかをイメージしてればいいという場面なのかもしれない。私はひとつ、望んでいることがある。本当に豊かで幸せあることを、生きているうちに経験したいということだ。そうした人々は数知れず存在しているし、そうした状況になってみないとどういう気持ちなのかは知ることができない。溢れるような豊かさとはどういうものなんだろう。もしかしたら、自分が経験してみたいのではなく、彼に経験させてあげたいと思っているのかもしれないし、亡き父に見せて喜んで欲しいと思っているのかもしれない。子供たちや母や妹や妹の家族や、みんなで豊かさを享受して幸せに溢れ、多くの人に分かち合うようになれたら、と憧れる。間に合うだろうか、とつい焦る。でも焦ること自体が、豊かさとは縁遠い。(笑)もしかして子供たちのうちの誰かが、この思いを受け継いで実現してくれないだろうか。それは充分しあわせな人生だ。