自由の身となった私は、半年以上の猛勉強の末、1994年4月自宅で塾を開きました。
今の塾は1962年に両親が建てたもので最初は住んでいて後に人に貸していたのですが、偶然引っ越しをされたので、1995年に移転しました。
このころの私の頭には将棋はほとんどなく、本屋さんが毎月届けてくれる月刊誌をパラパラと観る程度でした。まったく指していませんでした。
2001年結婚することになり、自分の部屋にあった「将棋マガジン」「近代将棋」「将棋世界」と付録と単行本の一部は父親が車で何往復かして、A産業にお世話になりました。
転機は2011年の大震災と原発事故です。これからどう生きていくか考えさせられました。
このころインターネットで将棋が観られるようになっていました。そして安次嶺隆幸さんの「将棋をやっている子供たちはなぜ伸びしろが大きいのか?」に出会いました。そして娘が学校から「JR塩川駅舎100周年記念将棋大会」のお知らせをもらってきました。見学もOKとありました。
指導員の武蔵さんは、観戦記でお名前は知っていましたが、初めてお話ししました。後日道場を訪ねた私は、週1・2回私の塾に将棋の指導に来ていただけないかお尋ねしました。私の棋歴等を聞かれ、また道場にいる方と次々と対局するよう言われました。前回書いた大会はたしか1992年か93年なので、約20年ぶりの実戦です。数年後県のタイトルを取ることになる方にも「飛車落ち」(勿論あちらの)で勝ってしまいました。「それでは、しばらく会津王将会道場に通ってください。私がOKと判断したら三段免状が取得できますから、ご自分で教室を開いてください。」ということになりました。
娘と私の日曜日の道場通いが始まります。鉄ちゃんだった一輝君は、塩川駅では電車を見て喜んでいましたが、道場にもついてきます。当時5歳でひらがなも怪しい一輝君でしたが、将棋の駒の動きやプロ棋士の名前は覚えました。
実戦は日曜日だけなので、平日は独学です。自分を実験台として、将棋の勉強法の研究の始まりです。