ドイツの文化とワイン
先日、ドイツワインセミナーに参加した。講師はワインジャーナリストの田中克幸氏。テーマは「リースリング以外のドイツワイン」。14人余りの参加者を前に、まず田中氏が聞いた。「なぜドイツワインはリースリングなのか」と。ドイツワインはリースリングだけではない。リースリングはドイツの栽培面積の22%あまりを占めるにすぎないのに、ドイツワインを代表する品種であり、ドイツワインといえばリースリングを連想するまでになっている。一体それはなぜなのか。理由は様々なのだが、リースリングを形容する際しばしば用いられる酸の切れ味、縦方向の味わい、北国らしい冷涼感こそが、ドイツワインならではの美質であるとしたら、その条件に当てはまらないワインはどうなるのか。ドイツワインは「かくあるべし」といった理想像にかなう条件を想定することは、その条件にあてはまらないワインを排除することになりはしないか。あたかもナチスがアーリア人こそ理想の人種であり、それ以外を見下し、さらにはユダヤ人を排除することによって理想国家を実現しようと試みて失敗したように。何が良くて、何がそうでないのかを決めつけることは、ワインにおいても避けなければならない。ここに3種類のワインがある。正体を明かさずにまずは飲んでみよう。どのような印象を持つだろうか。参加者の一人が言った。「ドイツ人が普段飲むようなワイン。会話を楽しみながら、青空の下のテラスで飲むような感じ」と。まさにその通り。ドイツ人というと、勤勉で目標を目指して絶えず努力しているような印象があるが、実はそれだけではない。おしゃべり好きで話し始めたら止まらない。田中氏は一度ドイツの醸造所を訪ねた際、6時間延々と醸造家と話し続けたことがあるという。また、昔付き合っていたドイツ人女性も議論が好きだった。何でも議論のテーマになった。彼らにはそうした面があることを忘れてはいけない。これらのワイン――グートエーデル、ソーヴィニヨン・ブラン、ジルヴァーナー――もまた、会話を楽しみながら飲むのにふさわしいカジュアルなワインだ。カジュアルなのだけれど、ビーチサンダルほどカジュアルではない。それなりにちゃんとした、スマートなカジュアル感がある。心地よいユルさ、親しみやすさがある。とりわけバーデンの地場品種グートエーデルは、何かを目指すはけではなく、ありのまま、素のままという感じがする。地に足のついたワインというべきか。Ziereisen, Gutedel 2011 (Baden, Erfingen-Kirchen)Dr. von Bassermann-Jordan, Sauvignon Blanc 2001 (Pfalz, Deidesheim)Kruger-Rumpf, Munsterer Silvaner 2010 (Nahe)さて、突然だがプロイセンの功罪とは何だろうか。ドイツを統一国家にまとめ、ヨーロッパの後進国を列強の仲間入りさせたビスマルクが鉄と血で造り上げた近代ドイツだが、その規律正しさや力の崇拝といったものは、本来北国プロイセンの国民性だ。その延長上でナチスがアーリア人種の優越性と、その特徴を定義した訳だが、それが根拠のなものであったことは既によく知られている。理不尽な理由でユダヤ人が排除され、純粋なアーリア人への国家が目指された。だが実際にはドイツ人は様々な民族の血が混ざりあっている。例えば、以前モーゼルのザンクト・ウルバンスホーフ醸造所に行った時、ここはドイツワイン法で禁止されているにもかかわらず、接ぎ木なしの自根で栽培している。なぜそんなことをするのかと聞いたところ、醸造家はこう言った。トリーアはローマ人が建設した都市だ。我々はその子孫であり、つまりイタリア人の血が混じっているのだ、と。イタリア人といえば杓子定規とは正反対、いろんな意味で都合のいいように解釈するという、ある意味長所がある。人種は混ざり合うことで豊かさが生まれ、豊饒な文化が形成されていく。ワインも単一品種だけから優れたものが生まれるとは限らない。フランスでは産地ごとに様々な品種があるが、その中でどの品種が優れているとは言わない。ドイツではリースリング、シュペートブルグンダーを高貴な品種として称揚する傾向があるのと対照的だ。次の三種類を試飲してみよう。まずバーデンのグラウブルグンダー。田中氏はコルマールに行くと大抵ライン川の対岸にあるフライブルクに立ち寄るのだが、服装を見ていると面白い。コルマールの人々は明らかにフライブルクの人々よりも厚着なのだ。つまり、コルマールはフランスの最北部にあるので、人々は寒さに備えようと厚着をする。一方、フライブルクはドイツの最南部にあるので、他の地域に比べて温かいと思うようで、薄着をして平気な顔をしている。実際には緯度は同じなのに。ドイツは実は言われているほど寒くない。暑苦しいほどではないが、爽やかな暑さがある。そもそも本来地中海性の葡萄が熟すのだから、それほど寒くはない。アルコール濃度もけっこうな高さに達しうる。シュロス・ゾンマーハウゼンのシェラザード2009。フランケンの生産者だが、ここに田中氏がずっと以前訪れた時、単一品種のワインしか生産していなかった。なぜ単一品種にこだわるのかについて、延々と議論した。6時間以上。それから数年して、この8種類の葡萄の混植混醸したワインがリリースされた。さっきのジルヴァーナーにも、2%ほどリースリングが混じっている。ジルヴァーナーは熟すと甘く食べて美味しいので、人通りがある農道に沿って一本だけリースリングを植えて、つまみ食いを防いだ。でも収穫は全部一緒に混ぜて醸造したので、このユルさの中に酸のアクセントが効いている。そしてメンガー・クルッグのメトード・ルラーレ・ブリュット2007。スパークリングワインだが、一次発酵も二次発酵も補糖をしていない。葡萄果汁に最初から含まれる糖分だけでスパークリングになったワインだ。シャルドネ100%。それだけ完熟していた訳だが、酸が落ちていない。この透明感のある酸味に北国らしさを感じる。Krumpp, Grauburgunder Alte Reben 2010 (Baden, Bruchsal)Sektgut Menger-Krug, Methode Rurale Brut 2007 (Pfalz, Deidesheim)Schloss Sommerhausen, Scheherazade 2009 (Franken)ところで、プロイセンと逆に南にあったのがバイエルン公国。ルートヴィヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城など、プロイセン的なものの対極にあると言って良い。ドイツロマン主義の象徴だ。トーマス・マンは1945年のあの有名な講演「ドイツとドイツ人」の中でこう語っている。「ドイツ・ロマン派、それはあの最も美しいドイツ人の特性、ドイツ人の内面性の発露以外の何物でしょうか。多くの憧憬に満ちた夢想的なもの、幻想的で妖気を漂わせたもの、深遠で風変りなもの、それにまた高度な芸術的洗練、あらゆるものを超えて漂う反語精神、こうしたものがロマン派の概念と結び付いております。しかし、ドイツ・ロマン派について語るとき、私が考えているのは、実はこのことではありません。それはむしろ、ある種の暗い力強さと敬虔さなのです。あるいは、こう言ってもいいかも知れません。それは自分自身が、地底の世界に通じるような非合理的で悪霊的な生命力に近いところに、すなわち人間の生命の本来の源泉の近くにいると感じており、他方単に理性的でしかない世界観や世界論に対しては、自分はもっと深い理解を持ち、聖なるものともっと深い結び付きを持っているとして反逆する、そのような魂の古代性なのです」(青木順三訳、岩波文庫赤434-7, 30, 31頁)地底の世界に通じるような非合理で悪霊的(デモーニッシュ)な生命力に近いところにドイツ人の特性があるとは、まるでドイツワインについて語っているようではないか。ここで次の3種類の赤を正体を明かさずに試飲してみる。どれかはドイツワインではない。わかっただろうか。バーデンのレンベルガー、ファルツのカベルネ・ソーヴィニヨンには縦方向に、地の底にむかって伸びる印象があるのに対して、ボルドーは横に広がっている。最後にバーデンのシラー(Ziereisen Gestad 2009)とファルツのピノ・ノワール(A. Christmann Koenigsbacher Oelberg 2008)を味わう。ツィアライゼンのシラーはその端正で濃厚な味に惹きつけられる。一方クリストマンのピノは非実体的な浮遊感がある。まさにドイツロマン派のワインだ。Burg Ravensburg, Lemberger trocken 2008 (Baden, Sulzfeld)Chateau Belle-Vue 2008 (Bordeaux, Haut-Medoc)Menger-Krug, Flame of fire 2009 (Pfalz)Ziereisen, Gestad 2009 (Baden)A. Christmann, Koenigsbacher Oelberg 2008 (Pflaz)大体、こんな内容であった。メモをもとに、思い出しながら書いたので、セミナーで語られた内容と異なる点や抜けている点があるかもしれないが、お許し頂きたい。ドイツ文化、国民性とワインについて改めて考える機会となった。ご参考になれば幸いです。