今日から少し、安藤梅幸さんについて書きましょう。父、源三のすぐ上の兄繁三さんの長男、私の従兄にあたります。梅幸さんは大正8年生まれ、終戦の年にはまだ25歳です。孝三叔父さんの安藤飛行機研究所を手伝っていたことは、すでに書きましたが、残務整理が済むと第二の人生として、愛知県モーターボート競走会へ入りました。以下の話は梅幸さんから直接聞いたことより、私の競艇の師匠、河合二男さんから聞いた話が中心となります。
その前に河合さんとの出会いは駅前の飲み屋、”志な乃”です。河合さんは豊橋生まれの豊橋育ち、20歳の昭和36年から蒲郡競艇場にアルバイトで入り、昭和38年4月に正式職員となり、平成14年3月に定年退職するまで、競艇場に39年勤めた、まさに蒲郡競艇場の主です。今日蒲郡競艇がトップクラスの売り上げを誇っているのは、河合さんの功によるところが大きいのです。
蒲郡の競艇場を借りて、トライアスロンのレースをするようになり、最初のころはまず河合さんと志な乃で来年の日程を打ち合わせして決めていました。今は競艇素浪人と名乗り、週間レースに競艇バカ一代記を連載しています。
ここで、競走会について少し説明しておきましょう。競艇は、競艇場を管理する施行者と競技・選手を管理する競走会が協力して行っています。全国に現在24の競艇場がありますが、施行者は自治体であったり、企業体であったりしますが、競艇場の設備の管理と、舟券を売り、それを取りまとめて、オッズを表示したり、払い戻し金を決めて、払い戻しをしたり、レースの宣伝をしたり、お客さんのサービスをしたりということをしています。それに対して競走会は競技規則を決め、選手を管理しています。各競艇場のある県の競走会がさらに連合会が統括していて、そこが選手を管理し、各競艇場に選手を斡旋します。
さて、梅幸さんですが、最後は蒲郡で競技委員長をしていました。レースの審判、選手に対するペナルティなどを決定する最高責任者です。なかなか気難しくて、施行者、競艇記者は、まずご機嫌伺いをしないと、臍を曲げて協力してくれないということがあったようです。選手からは”鬼の珍念”と言って恐れられていました。年賀状には狂気委員長と書いてあったそうです。几帳面で安梅メモと呼ばれる細かいメモをつけていたようです。また、飛行機以外にはカメラと無線が趣味で(写真を撮るのは下手なのですが)カメラ・ビデオ撮影機はたくさん集めていました。
河合さんはよく心得ていて、宣伝の仕事を担当していたときに、選手の取材をするのにまず梅幸さんを通すと話がスムースに行くことを知っていましたから、まずカメラを持って梅幸さんのところへ行き、写真の撮り方を訊きます。すると、任しておけという訳で、嬉しそうに話が始まります。そして、○○選手の取材をしたいのですがというと、その選手を呼び出してくれます。「○○選手、競技委員長室へ来なさい」○○選手は、鬼の競技委員長に呼ばれると緊張してやってきます。競技委員長の机の前には床にビニールの線が1本引いてあります。知らずにその線の少しでも前に出ようものならたちまち「貴様その線を何と心得るか!」といって物差しがピシッと飛んできます。何しろ、戦前・戦時中、安藤飛行機研究所の鬼教官です。
ここは、ピットと呼ばれる選手が舟の整備をするところ、この反対側(背中側)に競技委員長室があります。
ピットの横に、選手の医務室があり、たまに代務で頼まれることがあります。ここで毎朝体重測定と血圧測定をします。男子の場合50kgを切ると体重調整で錘をつけなければいけません。軽い方が有利だからです。一流選手は50kgぎりぎりに調整します。また、血圧150/90より高いと出走禁止になります。60才過ぎまで現役で頑張っている選手の中には高血圧の選手もいます。大抵1人か2人くらい基準を超えている選手がいますが、150/90にまけておきます。
ここに綺麗な看護婦さんがいる(いた)。右側は給食のおばさん、お昼はこのおばさんが作ってくれる。ここは日雇いですが、結構給料がよいので、私も早くやめてここに勤めたい。事故がなければ、ほとんど仕事がないので、競艇を見て遊んでいられる。