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2007/08/28(火)04:38

事件とは?

人物紹介(42)

  昨日、女房のコメントの中で私の母のことが事件として取り上げられていましたので、一度母のことを書いておきましょう。私の母は大正4年生まれで今年93歳になります。会津の出身で小さいころは開拓に行った父親に連れられて北海道にいた時期もあるようです。東京へ出て教員の資格を取り、結婚したようですが、子供はなく、ご主人を若くして亡くしたようです。あまり、その辺のことは話したくないのか聴いていないのですが、絵の先生だったようです。その後、東京で下宿していたところに、父、安藤源三の妹の小林時枝先生(日本女子大を出て、市川房江議員の右腕として働いていた人)がみえて、兄が奥さんを亡くして困っているから、ツルちゃんどう?と話を持って来て、女ばかり6人の子供がいる、20歳も年の違う父、源三のところへ後妻に入ったのです。当時母は34歳で、父は54歳、一番上の姉(先妻の子供)は30歳くらいでした。父はその頃は知多で運送会社を経営しており、大きな屋敷に住んでいましたが、私が中学に上がるころには大きな運送会社に吸収されて、父も引退しました。それからは父の収入はなく、母が代用教員をして家計を支えていました。再婚後3男1女が出来て(私は2番目で次男です)、全員大学まで出して、先妻の子供たちを全部嫁に出して、古い屋敷が残っただけでした。土蔵にあった骨董の類も少しずつ父が売って小遣いに消えました。立派な萱の天地柾8寸盤に転がりそうな蛤と那智黒の碁石があって、それは欲しかったのですが、生活のために300万で売られて行きました。母はとても教育熱心でした。生活費を切り詰めても、勉学のためには惜しまず出してくれました。当時はまだ田舎では珍しかったのですが、兄、私、妹とお金のかかる名古屋の私立へ通わせてくれました。一番下の弟はお金がなくなって公立で通しました。物心ついたころのエピソードで、教育に厳しかった母の話があります。ひとつは保育園に上がる前に2kmほど離れたカトリック教会のやっている幼稚園に入れられたのですが、毎日まだ3歳の私が一人で通うにはつらい距離でした。ある時大きな台風が来て、「やった~、今日は台風で休みだ~」と思っていたら、母が鬼のように「何があっても休んではいけません。」泣く泣く、台風の中を、傘を途中で飛ばされながら、やっとの思いで着いたら、幼稚園の先生が「あら~、こんな台風の中を一人で来たの。今日は休みよ~。」その時は連絡がいって、さすがに迎えにきてくれました。もうひとつの話は、先妻のお姉さんたちがたくさんいる中で、少し小さくなっていましたが、初めて自分用の本立てを買ってくれたのです。机もなくてミカン箱を代用していたころです。嬉しくて早速漫画本を並べて置いたら母が烈火のごとく怒って、「漫画の本を置くために買ってあげたんじゃありません!」怒るばかりではなくて、よいところは褒めてくれました。この3歳ころのことが、その後の私の生き方を決定したようなものです。  さて、母の話に戻って、母は努力家です。知多へ来てからずっと短歌を詠んでいます。馬場あき子先生が主宰する花林(かりん)の会に入って、友達を誘い、知多にかりんの会の支部を作ります。55歳で車の免許を取り、90歳近くまで乗っていました。腰椎の圧迫骨折をして腰が曲がり、耳はとても遠くなりました。今は杖をついて短い距離ならなんとか歩ける程度です。8月25日・26日とかりんの会の全国大会が蒲郡の三谷温泉であるというので、6月ころに何とかして出たいと言っていましたが、耳が遠くて会話が一方通行だし、第一蒲郡までくるのが大変です。今一緒に住んでいる妹が説得して諦めさせたと聞いたのですが、24日の夜に突然母から電話がかかってきて「もっちゃん、明日平野屋さんを一部屋頼んでちょうだい。新海さんが付いて行ってくれることになったから。」「え~、新海さんって、81歳のシルバーカーをひいて歩いている~?付き添いの付き添いがいるよ~。」「だいたい、明日のことだよ。今から頼んでも部屋がないかも知れないよ~。」「タクシーを頼んだから、gjajia  a a hajbab・・・」「だって、明日は僕もアッコも伊豆に行っていないよ~。」「もっちゃん、それじゃ頼んだよ。」こうなるともうどうにも止まらない。仕方ないので、平野屋さんに電話しました。「予備の部屋があるので、ご用意できます。」「え~あるんですか?それでは腰が悪いので、低いベットを入れてください。それから車イスはありますか?」予想に反して部屋はありました。2泊したがっていたのを何とか1泊に諦めさせて、・・・。伊豆の日帰り旅行から帰ってきたら、また平野屋さんから電話です。「もっちゃん、ありがとうね。みんなよくしてくれたよ。明日の朝、かりんの会の世話になった人たちに挨拶に来てくれないかね?」「え~、明日は女房と一緒に知多へ帰ろうと思っていたのに、・・・」「7時半ころ、平野屋さんに来てちょうだい。みんなが食事をする前に、gnaj;aa haijn・・・」仕方ない。朝行って、馬場あき子先生始め、主だった人たちに挨拶して、どうやら母も思い残すことなく満足したようです。それから朝食の終わるころに迎えに行って、知多まで乗せて帰りました。これが事件の顛末です。

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