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Try! Nature Watching! (since 2006.8.14)

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ノスタルジー

2018年09月26日
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カテゴリ:ノスタルジー
ウィンク10年ほど前まで、家では犬も猫も飼っていました。20年ほど前は大お祖母さん、お祖父さん、お祖母さん、私と女房に、4人の子供と4世代同居の9人家族でしたから犬や猫の世話をする手もあり、動物を飼うのは子供の教育にもよいだろうと思っていたからです。今日は我が家で飼っていた最後の犬と猫の話です。
ガマの絵

ガマの絵 posted by (C)ドクターT
ウィンク最後の犬、ガマは私が蒲郡で拾って来た犬です。蒲郡で拾ったからガマと言う単純な名前の付け方ですが、昔からそうでした。当時、私は蒲郡市民病院へ単身赴任して朝晩、トライアスロンの練習で蒲郡緑地へ行って走っていました。ある日の朝、蒲郡緑地の周回コースを回っていると、南側のトンボ池の近くに子犬が3匹入った段ボールが置いてありました。生まれてまだ1か月も経っていない子犬3匹ですぐに捨て犬だと判りました。箱から出してやるとペロペロと手を舐めます。腹が空いているようです。その頃家には雌犬のピッピ(小さい頃おしっこをピッピと飛ばすので)とその子供のコイ(色が濃いので)とウス(色が薄いので)を飼っていて、拾って帰れば女房に怒られるに決まっています。走り出すと後を追いかけて来ます。後ろ髪をひかれながら、仕事へ行きました。仕事をしていても捨て犬のことが頭に浮かび、身が入りません。仕事が終わると、矢も楯もたまらず、何とかなるだろうと心を決めて、公園に行きました。何故か3匹いた犬は2匹に減っていました。誰か1匹拾って行ったのでしょう。残っていた2匹を拾って、里親を探しました。雄の1匹は病院の看護婦さんで貰い手が見つかりましたが、雌犬の方はどうしても見つかりません。仕方なく家に連れて帰り、女房に訳を話しました。最初はブツブツ言っていましたが、諦めて飼うことになりました。3匹が4匹となり、私は単身赴任で家に帰るのは月1~2回くらいでしたから、犬の世話は女房に任せきりです。ガマはガマで拾われた身の上を感謝するとともに、先輩の犬たちに何か遠慮していました。一番小さかったこともありますが、数年経って他の犬たちが高齢となって一番体力的に元気になっても食事の時は遠慮して他の犬たちが食べるのを待っていました。10年ほど経って、ピッピもコイもウスも死んで1匹だけ残ったガマは遠慮する先輩がいなくなり、ようやく我が世の春が来た感じでしたが、それも長くは続きませんでした。自分自身が年をとり、いつの間にか老犬になっていました。散歩に連れて行っても昔は4匹に引っ張られて大変だった女房がせかして歩くくらいになっていました。足も弱りプルプル震えるようになりましたが、世話をしてくれる女房の周りでたむろしているのが好きでした。ある日、女房が庭で草取りをしながら、周りでついていたガマに独り言のようにつぶやきました。「お前がいるからなかなか旅行にもいけないんだよ。」翌朝ガマがいなくなりました。ガマはもう遠くまで行く体力はありませんので、夜繋いでおかなかったのです。そんなに遠くには行けないはずと大探ししましたが、とうとう出てきませんでした。女房の独り言の小言を聞いて、最後の力を振り絞って、人目につかない場所でひっそりと生涯を閉じたのです。
おっぱいを吸う真似をするニャンコ

おっぱいを吸う真似をするニャンコ posted by (C)ドクターT
ウィンクニャンコが家に来たのも突然でした。鉄平が自分で世話も出来ないのに拾って来たのです。親子揃って同じようなことをするものです。拾ってきたニャンコはガリガリに痩せていて、ヒューヒューと喘鳴が聞こえていました。これは長くは持たないなと思いましたが、女房の献身的な介抱のお蔭ですっかり元気になりました。物心つかないうちに捨てられて、母のおっぱいが懐かしいのか毛布を出すといつも毛布でおっぱいを吸う動作をします。
マタタビにじゃれるニャンコ1

マタタビにじゃれるニャンコ1 posted by (C)ドクターT
びっくり山でマタタビの実を採って来て、近くに置いてやると酔っぱらったようになります。猫にマタタビとはよく言ったものです。
柿の木に登るニャンコ

柿の木に登るニャンコ posted by ​(C)ドクターT
ウィンク猫はかなり自由気ままで窓を開けておくと、そこから自由に出入りします。雌でしたから避妊手術もして、自由にさせていて、家を2日くらい空けても隣の家に入り込んで餌をもらっていました。でも飼い主が誰かはよく知っていて、散歩に出ると必ずついて来ます。ミカン畑まで行ったら、ついて来て柿の木に登ってご主人さまの様子を見ています。とても用心深い性格で、自分の縄張りははっきり決めていて、そこからはどんなことがあっても出ようとはしません。ご主人さまがその縄張りから外へ出るとピタリとそこで止まってしまって、ご主人様の帰るまで待っています。大通りまで出て車にはねられる心配はありませんでした。元気いっぱいのニャンコに突然の悲劇が襲います。その頃野犬が出て毒餌が撒かれたと言う噂がありましたが、それを間違って食べてしまったのでしょうか?家の玄関の前まで来て絶命していました。普通猫は死期を悟ると行方知れずになると言いますが、ガマは死に場所を求めて行方知れずになり、ニャンコは異常を感じてご主人様を頼って家に帰って来ました。それ以後、女房に何度か犬か猫を飼おうよと言いましたが、決して飼おうとはしません。​






最終更新日  2018年09月26日 22時26分54秒
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2018年09月25日
カテゴリ:ノスタルジー
​​ブラックペアン
ブラックペアン posted by (C)ドクターT
ウィンク海堂尊原作でドラマ化したブラックペアン、二宮和也演ずるオペ室のダークヒーロー、渡海征司郎と内野聖陽演ずる東城大学総合外科教授で天才心臓外科医、佐伯清剛の秘められた過去の因縁をめぐる確執がテーマですが、・・・。
ブラックペアン(2)

ブラックペアン(2) posted by ​(C)ドクターT
ウィンクかって、渡海の父が手術の時にペアン(止血用鉗子)を患者の体内に置き忘れた責任を取って大学を追われたのが、事の発端ですが、渡海征司郎はその患者を見つけてペアンの取り出し手術をしますが、外した瞬間に大出血を起こします。そして佐伯教授がブラックペアン(カーボン製でレントゲンにも映らず、火葬すれば灰になる)に交換して止血すると言う話の流れですが、この話には重大な問題点があります。それはペアンが体内に残っていることを患者に告げていない点です。今の医療ではあり得ない話です。
しょんぼり手術中に体内に物を忘れること、それは時々起こります。器械出しの看護師さんは手術の初めと終わりで器械の数、ガーゼの数を確認します。もし合わなければ単純写真を撮ります。器械はもちろん、ガーゼにもレントゲン不透過のラインが入っていますので、写ります。それでも時々間違いは起こります。
しょんぼり私にも忘れ物の経験が2回あります。1例目は私が忘れた訳ではなく、前任者がお腹の中にコッヘルを置き忘れ1か月後に取り出したもののその後癒着性イレウスを時々起こしては来院するのです。もちろん、病院は本人にも話して、以後の医療費は全て病院で持つ約束になっていました。あまり何度も繰り返すので、癒着剥離術を勧めましたが、本人は保存的治療を選択しました。
しょんぼりもう1例は私自信の失敗です。タオル(ひも付きガーゼ)をお腹の中に忘れて閉じてしまったのです。胆石の手術でしたが、ミニラパ(小開腹)で行っていたため、視野をよくする目的で、肝臓の裏にひも付きガーゼを入れて肝臓を脱転させて、胆のうを見やすくします。通常はひもを外へ出してコッヘルでもつけておくのですが、小切開でそれも邪魔になるので、中へ全部入れて手術していました。ガーゼカウントはしますが、まさかタオルを忘れるとは思っていなかったので、誰も置き忘れに気が付かずに閉腹してしまったのです。そして、麻酔から醒めて部屋に帰って来ました。その頃、私は仕事が終わるとトレーニングのために蒲郡緑地公園に行って一人もくもくと走っていました。その日も定時に終わって、走りながら今日の手術の反省をしていました。手術の最初から最後まで順を追って、あそこをもう少し改善出来ないかなど反省するのを常としていました。そこではっと気が付いたのです。そう言えばタオルを出した憶えがないことに、・・・。急いで器械出しをしていた看護師さんに電話して訊きました。すると看護師さんも出した憶えがないと言います。あ~、人の忘れ物を馬鹿にしていた私が、やっちまったよ~!しかし、ここからが人と違うところです。過ちを改めるには早いに越したことはありません。すぐに病院に戻って、病室に行きます。奥さんがついていましたので、まず奥さんに正直に打ち明けます。まだ2時間くらいしか経っていませんからすぐに取り出せば何の問題もありませんと。すると奥さんが本人に判らないように取り出して下さいと言います。判りました、そうします。全身麻酔の後と鎮痛剤の影響で本人はまだ朦朧としていましたが、病室でラボナールを管注して眠らせたまま手術室へ運び、抜糸再開腹してタオルを取り出しました。
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最終更新日  2018年09月25日 16時37分45秒
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2018年09月24日
カテゴリ:ノスタルジー
フラジャイル
フラジャイル posted by (C)ドクターT
ウィンクフラジャイル(fragile)とは「壊れやすい、もろい、か弱い、はかない」を意味する英単語ですが、同名のテレビドラマが放映されたことがあります。主演の長瀬智也演ずる天才病理医、岸京一郎は医療の正義、患者を救うと言う信念を持って病理診断をしますが、偏屈で自分の信念を曲げないためにいつも臨床医と衝突します。神経内科医だった武井咲演ずる宮崎智尋は仲良くなった女子学生の患者に対して上司が決定した治療方針に納得できず、岸の力を借りるために 病理部を訪れます。岸の指示によってクビになりかねない越権行為をさせられますが、無事に患者を救うことが出来たことに手ごたえを感じて病理部に転属することを決意します。
ウィンク私も学生時代に病理診断医に憧れたことがあります。時は1975年、今から43年前の話です。当時、私は名大医学部の1年生でした。将来はブラック・ジャックやドクターKのような外科医になろうと心に決めていましたが、外科治療で一番の難敵は癌です。癌であるのかどうかと言う診断や何処まで浸潤していて何処まで切除すればよいのか、リンパ節に転移はあるのかないのかなど治療方針を決める最終決定者は病理診断医です。私が目指したのはそう言う病理診断も出来る外科医、さらに進んで肉眼所見で病理まで判ってしまう外科病理医(surgical pathologist)でした。
ウィンク当時、学生紛争の影響がまだ残っていて、教授不在の教室がいくつかありましたが、第二病理学教室もそのひとつで、小塚貞夫(こづか さだお)助教授がトップでその下に助手、大学院生が3、4人いると言う貧弱な体制でした。第一病理学教室は主に実験病理、第二病理学教室は主に人体病理診断を研究テーマとしていましたので、私が学ぶべきは第二病理だと目標を定めて小塚助教授に近づきます。たまたま小塚先生が囲碁が好きなことを知り(多分初段か2段くらい)、6段くらいあった私は囲碁で小塚先生の心をつかみ、代りに病理を教えてもらうようになります。第二病理では毎週病理診断のカンファレンスが行われていました。小塚先生が数枚のプレパラートを問題として出し(それには臓器の名前だけが書かれています)、暇な時間にそれを見て、自分なりに所見を読んで病理診断をつけます。週に1回教室員、学生が集まってカンファレンスが行われます。学部1年、2年、大学院生、助手と若い順に自分の読んだ所見と病理診断を発表して行き、最後に出題者の小塚先生が解答を言います。学部の2年間、通って病理診断を学びました。結構難しい問題が多く、最初は間違いばかりでしたが、2年終わる頃には半分くらいは当たるようになりました。
しょんぼりさて、小塚先生に何か恩返し出来ないかと考えた私は、丁度その頃行われた第二病理の教授選に学生の委員として手を上げました。教授選考委員会は、委員長を始めとして6人が教授、学生、大学院生など五者協から5人の委員が出て、月2回くらい集まって進めます。委員長は中研病理の教授をしていた牛島先生でした。最初は全国の病理医をリストアップし、公募による応募者と合わせて候補が100人くらい上がります。その中から年齢の適したものを選び、過去5年間の業績、インパクトファクターなどで絞って行きます。その時にいろいろな条件を出して絞るのですが、ほぼ委員長の頭にはこの人を教授にしたいと言うのがあって、その人が入るような条件を出してくるのです。候補者が5人くらいに絞られると候補者の主要文献を取り寄せて輪読し、評価をします。3人になった時点で本人に委員長含め2人の教授委員が面談し、本人の意思を確認したり、どのような教室を作り、どのような研究をしたいかを聞き取り調査します。もちろん小塚助教授は3人に残りましたが、最終的に学生委員を除く委員の投票によって順位をつけられて教授会に報告され、教授会で最終決定されます。小塚助教授は結局2位で、愛知県がんセンターの病理部から星野先生が教授として赴任しました。今は小塚先生も亡くなり、星野先生も教授在任中に亡くなられ、同級生の高橋雅英君が教授となっています。
ウィンクさて、卒業して最初に研修に行った名鉄病院では常勤の病理医はおらず、中検病理の牛島先生が週1回非常勤で病理診断のために来ていました。牛さん(そう呼ばれていました)は酒好きで東北の浦霞が特に好きで、写真を趣味でやってました。第二病理の教授選では小塚助教授を推してくれませんでしたが、教授選が終わればノーサイド、私は自分の患者さんの切除標本はいつも顕微鏡を覗き、病理診断を確認していて、時々牛さんにも直接教わりました。ある時、肺の結節を部分切除した標本を牛さんがこれは癌ではない、炎症性のものだと診断しました。私はその診断に疑問を持ち、第二病理の親しくしていた坪根先生にプレパラートを持って牛さんの診断を隠して診断を訊きに行きました。難しいな~と言いながら、牛さんが癌でないと言っていることを話すと「牛さんがそう言うなら癌じゃないよ。」と言われてしまいました。確かにその患者さんその後何も再発はなかったのです。牛さんは人体病理学のレジェンドで、特に膵癌病理の第一人者でしたが、自分の研究している膵癌にかかりました。自分の標本を自分で診た牛さんは余命を悟り、酒を飲んで天寿を全うしました。
ウィンク大学での専門研修が終わり、蒲郡市民病院に赴任しましたが、小さな自治体病院ですから当然常勤の病理医はおらず、浜松医大第二病理から教授の白澤先生か助教授の小杉先生が週1回来ていました。ここでも私は必ず病理診断は自分で確認し、病理の先生がみえない日の手術で術中迅速組織検査の必要があると、標本を作ってもらって自分で手術室で顕微鏡を覗いて診断していました。白澤先生も酒好きで木曜日、終わってからよく駅前の”志な乃”へお誘いして飲みました。小杉先生はアルコールが全く駄目でしたが、CPC(臨床病理検討会、年3回ほど行われてました)の後は一緒に付き合ってくれました。白澤先生は悪性リンパ腫の病理が専門でしたが、牛さんの時もそうですが、病理医は自分の研究している病気で亡くなるのか悪性リンパ腫で亡くなられました。

中分化腺癌

中分化腺癌 posted by ​(C)ドクターT
しょんぼりある時、17歳の女の子が腹痛を訴えて外来に来ました。ポッチャリした栄養状態のよい女の子です。右下腹部に軽度の圧痛があります。アッペン(急性虫垂炎)だろうと抗生剤投与によりいったん症状は治まりますが、また同じ症状で来院します。やはり右下腹部に圧痛と少し抵抗があります。少しイレウス症状もあり、アッペンから来る炎症性腫瘤だろうと入院手術を勧めます。ルンバール(腰椎麻酔)で小開腹して、指を中へ入れた瞬間、私の頭は混乱します。指先に感ずるザラザラした嫌な感触は紛れもなく年寄りで時々ある癌性腹膜炎の感触だったからです。そんなはずはないと頭で否定しても私の指は許してくれません。すぐに全身麻酔に切り替えて、病理の来ない日でしたので、腹膜の結節をひとつ採って標本を作ってもらったのがこれです。明らかに中分化腺癌です。虫垂切除の予定がプローベラパ(試験開腹術)に終わりました。その後の経過については別の機会に書きたいと思います。​






最終更新日  2018年09月24日 07時21分18秒
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2018年09月22日
カテゴリ:ノスタルジー
ドクターT
ドクターT posted by (C)ドクターT
クール私は1979年名大医学部を卒業して、名鉄病院で外科研修、1983年名大医学部第二外科内分泌研究室で乳腺・内分泌外科の専門研修、1987年から蒲郡市民病院第二外科部長として赴任して以来2009年蒲郡市民病院を退職するまでの30年間外科医としてメスを持ちました。現在68歳になります。老眼が進んだとはいえ、もともと近眼でしたから近くは眼鏡なしで見えますし、手が震えることもないので、スタッフ・設備一式貸してもらえるレンタル手術室があればまだ若手外科医には負けない自信はあります。
ウィンク私が、手術を教わったのは大学医局に帰った3年半でした。その当時内分泌研究室のチーフは水野 茂(みずの しげる)先生でした。積極的な手術をする先生で、当時乳癌でも甲状腺癌でも胸骨従切開をして縦郭内リンパ節まで拡大郭清をしていました。拡大手術をしても合併症が増えては意味がないと、手術創は出来るだけ小さく、縦切をすると出血量は約200cc増えますが輸血は決してしない、術中輸液は絞って、術後喉頭浮腫を予防するなど独特な考えを持った先生でした。しかし、決して諦めない手術で今永使いの名手でした。人間の体は幾層もの膜で出来ていて手術する場所に到達するまでには切開するか剥離すると言う操作が必要になります。今永と言うのは第二外科のレジェンド、今永 一(いまなが はじめ)教授が考案したクーパー(はさみ)の一種で、柄が長く、薄刃で、メッチェンよりも幅広で、剥離操作と切断を道具を持ち替えることなくすることが出来ます。メスも力の入れ具合によっては切りたいものだけを切って、切りたくないものの手前で止めるということが出来ますが、これはかなり高度なテクニックであり、間違って切りたくないものまで切ってしまうと大出血につながります。剥離をして安全を確認してから切るべきものだけ切る今永は安全面で優れた方法だと思います。当時第二外科でうちの研究室だけは原則教職(講師、助手)にあるものは執刀せず、下の者に執刀させて指導する方針で水野先生は細かく誰がどんな手術を何件執刀したかをノートにつけて、誰もが平等に執刀出来るように術者を決めてくれましたので、赴任する時に医局の挨拶で3年半の間に150例の手術を執刀させてもらいましたと言ったら、他の研究室の先生たちから羨ましがられました。蒲郡に赴任してからは、乳腺・内分泌だけでなく、消化器、呼吸器、泌尿器、婦人科などの手術を行うこともあり、拡大肝右葉切除、門脈肝動脈再建を伴う膵頭十二指腸切除、食道癌、肺癌手術、骨盤内臓全摘・尿路再建から内視鏡手術まで手がけました。特に整容性には気を使い、乳癌温存手術では出来る限り傍乳輪切開を用い、消化器手術でもミニラパで行うようにしました。2例ほど私の手術を見ていただきましょう。
症例1 (2)

症例1 (2) posted by (C)ドクターT症例1 (1)
症例1 (1) posted by (C)ドクターT
ウィンクこの症例は早期胃癌でしたが、術中迅速組織検査で断端陽性だったために追加切除して胃全摘となった症例ですが、臍の上だけの約6cmの創で行っています。
症例2 (12)

症例2 (12) posted by (C)ドクターT症例2 (16)
症例2 (16) posted by ​(C)ドクターT
ウィンクこの症例は乳癌の温存手術ですが、傍乳輪切開でほとんど手術をしたことが判りません。
しょんぼり蒲郡市民病院に赴任した時に外科は鈴木龍也院長の下に副院長で第一外科部長の永田 巌(ながた いわお)先生がいました。永田先生は古いタイプの外科医で何でも大きく開いてガバッと取る手術でしたから私が時間をかけて小さな創から苦労して取る手術を見て少し馬鹿にしていたような気がしましたが、それが間違いであったことは永田先生が退職して3年ほどして判りました。久し振りに永田先生が私を訪ねて来たのです。訊くと肺癌が見つかったとのことで、同年の友人たちにも相談してがんセンターへ行くように勧められたそうですが、断って私に手術をして欲しいとやってきたのです。専門ではありませんが先輩からそんなに信頼されていることを知り断る訳には行きません。約13cmの後側方切開で左上葉切除を行います。肺門部リンパ節まで転移があり、肺動脈に浸潤していましたが、部分的に肺動脈を合併切除して何とか切除しました。病理は小細胞癌で予後の悪い癌でした。抗がん剤治療を奨めましたが、拒否されて、先生の次男が内科で名古屋で開業していましたので、そこで経過観察をするとのことで帰られました。その後3年ほどして他の病気で亡くなるまで肺癌の再発はなかったようです。​






最終更新日  2018年09月22日 10時06分25秒
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2018年09月17日
カテゴリ:ノスタルジー
第51回愛艇会コンペ (1)
第51回愛艇会コンペ (1) posted by (C)ドクターT
ウィンク私の主宰する蒲郡愛艇会は年に3~4回競艇のコンペをしています。先日浜名湖で第51回のコンペを行いました。もう15年近く続いています。
競艇の師匠

競艇の師匠 posted by (C)ドクターT
ウィンク私が競艇にのめり込むきっかけを作ってくれたのはこの方、河合二男(かわい ふたお)さんです。市の職員ですが、蒲郡競艇一筋に定年まで勤めあげました。蒲郡駅前の地下の居酒屋”志な乃”で知り合いましたが、その頃宣伝課にいて、番組編成や選手の斡旋の仕事をしていました。その頃私は蒲郡オレンジトライアスロンを始めたばかりでしたが、第1回は10月に行い、第2回は7月の蒲郡まつりに合わせて行ったところ、市民会館の前の海が汚くて、またオンディーヌの前の桟橋もなかったので、保安署前の岸壁にスロープを仮設しましたが、人が大勢乗ると傾いたり、造る費用も大変だったので、競艇場が借りれないか河合さんに相談を持ち掛けました。競艇場は蒲郡市の施設ですが、競艇以外にも産業まつりなどに貸し出すことがあったからです。しかし競艇場となるとレースのない土日でないといけませんが、通常は3か月ごとに日程を決めるので、レース日程が決まるのが3か月前でないと判らない場合が多いのです。でも河合さんに訊いたら、6月の浜名湖が周年(GⅠ)をやる時には蒲郡は遠慮してレースをしないからこの土日は空いているよと教えてくれました。そこで、水質検査をしたら海水浴場の基準で快適ではないですが、適だったので、市長と競艇場へ正式に申し込みました。スイムコースはもともとある1周600mのコースのブイの横に75m離してブイをふたつ置けば1周750mの長方形コースが出来ますし、何よりも観客が見ることが出来る理想的なトライアスロン場となり、後にワールドカップや世界選手権を誘致する伏線となりました。そして市は何とスタンド前を舗装しなおして、自転車もスタンド前を周回出来るように改修してくれました。それで、私も競艇に恩返ししようと舟券を買うようになった訳です。
江戸川の内田さんと

江戸川の内田さんと posted by (C)ドクターT
ウィンク大きなレースがあると競艇関係のマスコミや他の競艇場の施行者さんが来ますが、河合さんがレース後よく”志な乃”へ連れて来ました。
喜多條先生と

喜多條先生と posted by (C)ドクターT
ウィンク喜多條忠(きたじょう まこと)先生は神田川の作詞家ですが、競艇が好きで競艇の予想などもスポーツ紙に書いていました。河合さんのお蔭で知り合いとなり、いろいろと話をしました。神田川は喜多條先生が早稲田大学在学中の実体験に基づいて創ったそうですが、「ただ 貴方のやさしさが恐かった」彼女はその後どうなりましたか?と尋ねたら別れたそうです。
艇友会(凪にて)

艇友会(凪にて) posted by (C)ドクターT
ウィンク河合さんは、競走会や全国競艇場施行者や競艇関係のマスコミでは有名で、全国の施行者がSGなどで顔を合わせると艇友会と言う名前の飲み会が行われました。私も時々それに混ぜてもらいました。写真は蒲郡のSGの時に”凪”で行った艇友会です。私の隣には江戸川の内田さん、常滑の水野さんがいます。河合さんの隣にはJLC解説者の荻野さんの顔も見えます。
DSCN1971

DSCN1971 posted by (C)ドクターT
ウィンクさて、”志な乃”で週刊レース社の編集長をしていた鈴木輝雄さんを紹介してもらい、私なりに研究した成果を週刊レースに儲かる舟券の買い方と言うタイトルで6回連載をするのですが、それを1冊に纏めて2008年に出版しました。この頃から3連単、ナイターレース、電話投票などが始まり、何処の競艇場でも場外舟券売り場を作るのですが、蒲郡の場外売り場はナイターであるために、午後にならないと開かないと言うおかしな運営をしていました。そこで金原市長に他の競艇場が朝から蒲郡の舟券を売っていてくれるのに蒲郡が昼から開けるのはおかしいと文句を言い、すぐに朝7時から開けるようになりました。これで出勤前に舟券を買えるようになりました。
大村競艇場-001

大村競艇場-001 posted by (C)ドクターT
ウィンク河合さんに同行してもらい、全国の競艇場めぐりもしましたが、競艇発祥の地大村で24場制覇を成し遂げました。
江口晃生選手と

江口晃生選手と posted by (C)ドクターT
ウィンク何処の競艇場にも選手の医務室があり、レース、前検日にはドクターが待機しています。蒲郡では鈴木龍也蒲郡市民病院名誉院長と市民病院を退職した産婦人科の東野先生が交代で勤務していましたが、名誉院長が倒れられてからは私も時々頼まれて行くようになりました。東野先生も亡くなって、今は5人くらいのドクターで回していますが、私も中心メンバーとして勤務しています。蒲郡には変わったドクターがいると選手の間でも評判になったのか、ある時群馬の江口選手が訪ねて来ました。その頃江口選手は現役を続けながら、早稲田大学大学院にプロ野球の桑田選手とともに通っていました。親しくなり、東京まで河合さんと一緒に飲みに行ったこともあります。
毒島選手と

毒島選手と posted by (C)ドクターT
ウィンクすると一昨年今度は江口選手の弟子の毒島選手が訪ねてきました。トライアスロンに挑戦したいんですが、どんなトレーニングをしたらよいですかと言う質問でした。いろいろ教えてあげ、昨年ハワイで51.5kmのトライアスロンに挑戦して完走しました。今年は石垣島のトライアスロンに一緒に行ったのですが、直前に荒天で中止となり、飲んで帰って来ました。今年SG2冠となり、暮れのグランプリの出場権も取れて今年一番活躍している選手です。
ボートに乗艇

ボートに乗艇 posted by ​(C)ドクターT
ウィンク今度は私もボートレースに挑戦したいなと思っている今日この頃です。​






最終更新日  2018年09月22日 07時54分07秒
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2018年09月14日
カテゴリ:ノスタルジー
DSC00765
DSC00765 posted by (C)ドクターT
ウィンク15年ほど前から飯田駅前の”天神坂”と言う居酒屋に通うようになりました。ママさんは糖尿病から来た脳梗塞で亡くなってしまい、今ではその店はありませんが、当時は四季の田舎料理を食べさせてくれる店として有名でした。元長野県知事の田中さんも3度ほどお忍びで来たことがあります。そこで出会ったのがいつも辛口の批評をするこの方でした。ちょび髭を生やした同年代のこの方は私が行くとたいてい居てママさんと親しそうに話していました。職業を訊くと切り花や洋ナシなどの果樹栽培をしているとの話でしたが、天神坂主催の春の山菜の会や秋のキノコ会ではいつも指導的な役割を果たしていました。
DSC01600

DSC01600 posted by ​(C)ドクターT
ウィンク私がその方がマツタケ採り名人だと知ったのは、マツタケの季節に”天神坂”に来た時です。その方が天神坂に仕事の合間に採りに行ったマツタケを1kg3万円で卸していることを知ったからです。それまでに何度か会って親しくなっていましたので、一度マツタケ採りに連れて行って欲しいと頼みました。最初は彼も観光マツタケで連れて行くつもりだったようですが、全山を6時間ほどかけて回りトータル2kgくらい採れたでしょうか。もちろん私が見つけることが出来たのは1~2本だけでした。しかし、急傾斜の山を6時間も自分についてくる私を見て、私を弟子にしようと決めたようです。その時彼には一人だけ弟子がいましたが、2人だけでその山のシロを他の人に採らせないように管理するのは無理があり、私を弟子にして3人で管理しようと思ったようです。弟子入りしてから2回ほど全山一緒に回り、何処にシロがあるのかを教えてくれました。そして、次からは好きな時に一人で入りなさい、そして何処のシロでどれくらい採れたかを報告しなさいと言われました。
クールここで私が師匠から教わったマツタケ採りの極意について記しておきます。マツタケはマツタケ菌が蔓延っているシロに一定の条件が整うと出るキノコです。マツタケは生きている特定の植物と共生する菌根菌で、その植物はアカマツ以外にもツガ、コメツガ、五葉松、ハイマツなどでも出ることがあり、その山では主にコメツガの周りに出ています。一定の条件とはまず湿り気と夜の冷え込みです。シロの中には強いシロと言って毎年出るシロと何年かに1回しか出ない弱いシロもあります。また早いシロ、遅いシロもあります。毎年出るシロでも1年前とは微妙にラインがずれて行きます。だいたいはラインは斜面に対して縦に並んでいます。シロは山の北斜面にはまずありません。南斜面のひとつの尾根を見ると尾根の東側にも西側にも出ますがどちらかと言えば西側に多い気がします。通常は急傾斜であまり落ち葉が深くつもらない場所に出ることが多く、土が露出しているところが多いですが、時にコケや笹の生えているところにも出ます。その年のラインを見つけたらそのライン上は注意深く触診します。基本的にはグループ以外の人にはそこがシロであることが判らないように、そのシロに出るマツタケは全て採るようにします。そしてマツタケを採った痕は綺麗に修復してそこで採ったことが判らないようにします。もちろん目印をつけるなどはもっての他で、しかしその場所は記憶しておかなければいけませんので、周辺の木とか石などを覚えて記憶します。次に行った時に5㎝と違わない精度で採った場所を指摘出来なければいけません。またそこへ至る道筋も出来るだけ痕跡を残さないように行く経路を変えるなどの注意が必要です。
ウィンク最近はシーズンを通して見るとトータル3kgくらいは採れるようになりましたが、まだまだ師匠の足元には及びません。​






最終更新日  2018年09月14日 00時00分21秒
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2018年09月11日
カテゴリ:ノスタルジー
中学3年
中学3年 posted by (C)ドクターT
ウィンク55年前の話です。東海中学に入った私は通学に片道1時間半はかかるので、最初の1年はクラブ活動は何もしていませんでした。中学2年になって少し慣れて余裕が出来たので、最初柔道部に入りました。東海は昔から柔道が強かったからです。ところがその頃体育の授業で1500m走をさせられました。体育の先生はあだ名が”ひよこ”と呼ばれていましたが、大野のお寺の坊さんでした。”ひよこ”は陸上部の顧問をしていました。小さい頃から野山を駆け回っていた私はぶっちぎりの1位でした。それを見た”ひよこ”は私に柔道部を辞めて陸上部に入るように勧めました。そう言われると悪い気はしません。それから陸上部として活動することになります。私はオールラウンドプレーヤーで短距離から長距離、跳躍まで何でもこなしました。でも走高跳の練習を砂場をよく耕さずにしていて、当時肩から落ちるベリーロールと言う飛び方をしていましたので、肩を痛めて跳躍を辞めて主に中長距離を走るようになりました。瑞穂競技場で行われた私学祭で2000mに出て2位となり、2年上の井坂先輩からこのまま中距離を続けるように言われて高校に入っても中距離を続けました。東海の南にあった建中寺が丁度1周800mあって、その周りで練習をしたり、長いロードは茶屋ヶ坂か名古屋拘置所まで走ると言う練習が主でした。名古屋拘置所に行くときは金城学園の横を通るので、その時だけは何故かフォームがよくなり、少しスピードが出ます。高校2年の時に2年上で、名大陸上部に入り短距離で活躍していた荒木先輩が指導に来てくれたことがあります。当時100mを10秒8、走り幅跳びを7m40飛び東海学生陸上記録を作った凄い先輩でした。荒木先輩は「走る時には腕振りを意識しなさい。腕を大きく振れば歩幅が伸びます。」と指導してくれました。名大の医学部に入り、陸上でも第1線で活躍している文武両道、憧れの先輩でした。その後、私は1年浪人して京大に入り囲碁部に入って運動からは遠ざかるとともに、高校時代の記憶も薄れて行きました。記憶が蘇ったのはそれから45年ほど経ってからでした。蒲郡市民病院外科部長、臨床研修委員長、病院広報委員長、愛知県警察医として獅子奮迅、八面六臂の活躍をしていた私に同門の尾西市民病院の伊藤院長から国保の審査員をやってくれとさらなる依頼が舞い込みます。月に2回東片端の国保会館へ保険の審査に行くのですが、行った早々、医科のレセプト審査だけでなく柔道整復師のレセプト審査もしてくれと頼まれます。断ることの苦手な私はそれも引き受けてしまいます。医科の審査はおかしいレセプトは査定減点が出来るのですが、柔整の審査はおかしいレセプトは原則全て返戻し、また戻って来て何か理由が書いてあれば全部通すと言うものでしたので、ストレスばかりでした。審査員は半分医科の先生、半分は柔整の先生がしていましたが、隣に刈谷豊田総合病院の整形外科で副院長の先生がみえました。少し白髪交じりの初老の先生で荒木先生と言う名前に何か懐かしみを覚えました。年に1回、柔整の先生が医科の先生を招いて宴席を設けてくれるのが恒例でした。その席で荒木先生と隣になって、「先生は背筋もピンと伸びているし何かスポーツをされていたのですか?」と尋ねたら「若い頃は陸上競技をしていました。」と聞いてはっと気が付きました。「先生はひょっとして東海のご出身ですか?」「そうです。」一瞬絶句しました。「荒木先輩、失礼しました。私は陸上部の後輩です。」と正体を明かしました。ちょっと恥ずかしい憧れの先輩との再会でした。






最終更新日  2018年09月11日 00時00分27秒
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2018年09月09日
カテゴリ:ノスタルジー
森教授と。 (5)
森教授と。 (5) posted by (C)ドクターT
ウィンク50年前の話です。東海高校3年の時に囲碁の好きな数学の櫛田先生と堀先生に顧問をお願いして囲碁同好会を立ち上げました。そこに2年生の森君が入って来ました。囲碁は下手の横好きと言う感じで当時アマチュア3段くらいあった私は森君に星目置かせて指導していました。でも負けず嫌いな性格であるのはすぐに判りました。その時には森君が何者か知りませんでした。その後私は東大の理科Ⅰ類を受験して惜しくも落ちてしまいました。当時私は東海で物理と国語は実力テストで常に上位を争っていて、地球物理学の研究者になるのが夢でした。1年浪人して東大を再受験と思っていたら、大学紛争が一番盛んな時で東大の入学試験が中止になってしまいました。東大が駄目なら京大の理学部と言う訳で雪の降る京都に泊りがけで受験に行きました。泊まった旅館が京大病院の南にあった小さな旅館だったのですが、そこでばったり森君に出会ったのです。あれ、どこを受けるんだい?と訊くと同じ理学部だと言うではないですか。二人とも無事に理学部に合格しましたが、京大でも大学紛争で教養部が過激派で封鎖されていて、正規の授業が半年ほどありませんでした。私は囲碁部に入って囲碁三昧の生活をすることになりますが、森君は真面目に数学の勉強をしていました。一時期、サークルを作って解析概論を一緒に読もうかとしたこともありましたが、私はすぐにぼおってしまいました。その頃になって、森君は高校時代から全国的に名の知れた数学者であることを知りました。その頃大学への数学と言う雑誌があって、数学の難問が毎号出るのですが、森君はそれでいつも満点を取るばかりか、出題者が思いもしない解答を寄せて出題する大学の先生から注目をされていたようです。私は森君にとっては悪友で下宿へ時々行っては神経衰弱をしたり(神経衰弱では森君に負けたことがありません)、ボウリングに誘ったり、洛友会館にビリヤードに誘ったりしていました。そんな私にも気さくに付き合ってくれるのですが、いつも数学の問題を考えているようで、遊びながら時々解った解ったと叫びます。何が解ったんだと訊くと考えていた問題が解けたと言います。森君は考えている時の癖があって、右手の指で前髪をくるくる巻き付けるのです。丁度頭の中から何か捻り出すような仕草に見えました。森君は長者町のタオル問屋の一人息子でしたが、ご両親は森君に好きな数学をやらせようと最初から跡継ぎとは考えていませんでした。時々お母さんが京都に来ては私も呼んでくれて、美味しいものを食べさせてくれます。私は貧乏学生で仕送りだけでは足らずに家庭教師のバイトをしていて、金がなくなると生協の素うどん(30円)で何日も凌ぐ生活でしたからこれはありがたかった。2回生の時に杉峠に通うのに中古の原付を買ったのですが、森君も真似して原付を買いました。それで1号線を走って家に帰ったこともあるのですが、今から考えると交通事故に遭って大数学者を失わなくてよかったと思います。2年目の時にまだ京大理学部に未練のあった私は数理統計学の試験を森君に代りに受けてくれと頼みます。全然勉強してなかった私は受けても受かる自信がなかったからです。ただし、あまり上手く解答するとばれてしまうから適当に間違えてくれと言う注文付きでした。それも嫌がらずにやってくれました。私は3回生の途中から医学部に転向するために名古屋に帰りますが、森君はすんなり卒業すると理学部助手となり、2年後にはハーバード大学に助教授として留学します。留学先で前世紀から数学者の頭を悩ましていたハーツホーン予想を解決。帰って名古屋大学理学部の助教授となります。その頃に森君の結婚式に呼ばれて行くと、全国の国立大学の教授が顔を連ねていました。1990年、若干39歳で広中平祐についで日本人3人目のフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われる)を受賞します。1988年には名古屋大学理学部教授、1990年京都大学数理科学研究所教授となり、1999年国際数学連合副総裁、2015年には国際数学連合総裁となり、世界の数学者のトップに立ちます。森君は初めから天才であった訳でなく根っからの数学好きと継続する力がここまで到達させたのだと思います。






最終更新日  2018年09月09日 00時00分17秒
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2018年09月06日
カテゴリ:ノスタルジー
五井山からの眺望
五井山からの眺望 posted by ​(C)ドクターT
ウィンク48年前の夏の話です。京大囲碁部の合宿が愛媛県松山市にある鹿島で行われました。夏合宿は毎年信州佐野坂南神城の長澤さん(囲碁部OB)の民宿で行うのが恒例でしたが、たまには違う場所でしましょうと言うことで、当時部長の大西恒二さん(工学部3回生)が場所を選びました。公式戦では主将は4回生の青木英明さん、副将が大西さん、私が三将を務めていましたが、夏合宿には4回生は参加しません。2回生は私と稗田君、1回生も数人参加しました。大西さんは形勢判断に明るいしぶとい碁で、閃き碁で大勝するか潰れるかと言う私とは対照的な碁風で、いつも勝負はヨセに持ち込まれることが多く、団体戦ではとても頼りになる先輩でした。鹿島は松山市の中心近くにあり、丁度蒲郡の竹島くらいの大きさですが、橋で繋がってはいないので、船で渡らなければなりません。島には海の家風の民宿が1軒だけあって、他に遊ぶところもないので、囲碁に没頭出来ると言う訳です。それでも2日目の昼の休憩に皆で浜で海水浴を楽しみました。その時に1回生に谷水君と言うちょっと生意気な奴がいて、私が観海流古式泳法をマスターしていてどれだけでも泳げるんだと言うと、自分も小堀流踏水術をマスターしていると言います。それではあの沖に見える小島(多分三河湾で言うと竹島から三河大島くらい離れていました)まで競争しようかと言う話になりました。部長に言うと多分止められるので、二人だけで黙って泳ぎ出しました。泳ぎ出して約2時間くらいでその島まで無事二人とも泳ぎ着きましたが、黙って行ったために二人が行方不明になったと大騒ぎになり、戻ってから部長に二人ともお灸を据えられましたがよい思い出です。最後の日には松山に渡って、松山本因坊と言われる人と対戦しましたが、実力はアマチュア5、6段は優にありましたから簡単に撃破しました。3回生が終わって、私は名大医学部を受け直すために名古屋に戻りましたので、大西さんとも谷水君ともそれ以来会っていませんが、大西さんは卒業後原電に入社して東海村に行ったと聞きました。15年ほど前に宮古島トライアスロンで知り合いになった山内豊明さんが丁度原電の人で大西恒二さんのことを訊いたら一緒に仕事をしたことがあるとのことでした。10年ほど前、大西さんがすい臓がんで亡くなったとの連絡を山内さんからもらいました。生きて見えたら当時のことを話ながら1局打ちたい方でした。谷水君については、卒業後予備校を始め、碁会所も経営して7段を名乗っているとの噂を聞きました。​






最終更新日  2018年09月08日 07時39分54秒
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2018年09月01日
カテゴリ:ノスタルジー
ナンジャモンジャ満開(家)
ナンジャモンジャ満開(家) posted by (C)ドクターT
ウィンク名大医学部を卒業し医師国家試験に合格した後に、臨床研修に入るのですが、私は名鉄病院を研修先に選びました。今では2年間の初期ローテート研修が義務づけられていますが、その当時研修のカリキュラムと言うものはなく、自分で研修方法は自由に選択出来ました。それでも名大では名大方式と呼ばれて2年間くらい自主ローテートする人がほとんどでした。私は外科をやりたいと思っていましたし、5年も回り道をして医学部に入ったので、焦りもあり、最初から外科にフィックスした研修を選択しました。名鉄病院は名大第二外科の関連病院でしたから第二外科にも入局し、そこで出会ったのが最初の外科の師匠、片岡先生でした。後に病院長になりますが、その頃は40歳代半ばの外科部長でした。上に副院長が1人、医長が1人、先輩研修医が2人、大学医局から非常勤で1人みえていました。朝、出勤すると外来が始まるまでの時間、お茶を飲みながら外科の休憩室で片岡先生が色々と話をしてくれます。その話を聴きながら、私は外科医、医者としての心構えのようなものを学びました。片岡先生は名大卒業後、県立多治見→精霊→名鉄と勤務先を替わりましたが、若い多治見の頃の話です。片岡先生が代務(アルバイト)で開業医のところへ行った時の話です。雪深い多治見でお婆さんが毎日通院していました。縫合処置した後の傷の消毒に毎日山ひとつ越えて通っていたそうです。大きな病院ではそんなことはしませんが、開業医では再診料を取って収益を上げるために毎日通院させていたとの話でした。お婆さんは毎日診てくれるありがたい先生と思っていたそうですが、必要のない通院をさせてはいけないとの教えで、患者ファーストでなければいけないと叩きこまれました。名鉄での外科研修はいわゆるヘルニア、ヘモ、アッペンと言う研修医がまずさせてもらえる手術を教わり、4年半で大学医局に戻ることになりました。片岡先生の家には当時珍しいナンジャモンジャの木があって、その元の木は東農地方にあり、実生でしか増やすことが出来ないと言う話を聴きました。私は木にも興味があったので、片岡先生の家のナンジャモンジャの実生で生えて来た苗木を1本もらいました。それを前の畑に植えたのですが、その後大学に戻って忙しくなったこともあり、トライアスロンに夢中になったことはもあり、そのことをすっかり忘れていました。10年ほど経った5月のある日、前の畑に見たことのない樹の花が咲きました。その樹のことを思い出すのに若干の時間が必要でした。今では家の木の中で一番の大木となり、毎年ゴールデンウィークの頃に真っ白に咲いて楽しませてくれます。うちが檀家にもなっている知多四国72番札所、慈雲寺にもナンジャモンジャが本堂前にありますが、それを凌いで岡田で一番大きなナンジャモンジャとなりました。花が咲くまで10年を要すると言うのは外科医として一人前になるのにそれくらいかかるのと同じで洒落た師匠からの贈り物だと思っています。​






最終更新日  2018年09月01日 14時56分01秒
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229.リュウキュウウラナミジャノメ☆


230.ルソンアサギマダラ☆


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233.テツイロビロウドセセリ


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235.タイワンアオバセセリ☆


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237.コウトウシロシタセセリ☆


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239.ヒメチャマダラセセリ


240.ミヤマセセリ☆


241.ギンイチモンジセセリ☆


242.タカネキマダラセセリ


243.カラフトタカネキマダラセセリ


244.ホソバセセリ☆


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249.コチャバネセセリ☆


250.ヒメキマダラセセリ☆


251.コキマダラセセリ☆


252.アカセセリ☆


253.キマダラセセリ☆


254.アサヒナキマダラセセリ


255.ネッタイアカセセリ☆


256.スジグロチャバネセセリ


257.ヘリグロチャバネセセリ


258.ユウレイセセリ☆


259.ヒメイチモンジセセリ


260.イチモンジセセリ☆


261.オオチャバネセセリ☆


262.ミヤマチャバネセセリ


263.チャバネセセリ☆


264.トガリチャバネセセリ


265.オガサワラセセリ


266.バナナセセリ☆


267.カラフトセセリ☆


Nature Watching Race


エッセー


師匠からの贈り物


束の間の夢


ある少女の死と飼い犬の家出


ジャコウアゲハのミーちゃん


トライアスロン


崩れた安全神話


大会中の事故と自己管理


大会中の事故と自己管理(英文)


トライアスロン事故史から見たルールの変遷


泳げる人の溺死


コメント新着

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