フライング・フィンと呼ばれたフィンランド出身の元F1チャンピオン、ミカ・ハッキネン。
彼のレースはあくまでもフェアでありながら、激しい闘争心を持ち合わせていた。
2004年現在6度のチャンピオンに輝くミハエル・シューマッハーに対してその速さで対抗し得た、最強のライバルであった。
ハッキネンとシューマッハーの因縁は1990年に遡る。
この年、ハッキネンはイギリスF3、シューマッハーはドイツF3をそれぞれ制し、F3世界一決定戦と位置づけられるマカオGPで二人は対決する。
当時のマカオGPは15周ずつの2ヒートで行われ、そのトータルのタイムで総合優勝が決められていた。ハッキネンは第1ヒートを2位のシューマッハーに2秒差をつけ勝った。つまりハッキネンは第2ヒートで優勝しなくてもTOPから2秒差以内でゴールすれば総合優勝となるはずだった。
第2ヒートがスタートすると、ハッキネンはTOPを行くシューマッハーにピタリとつけていた。このままゴールすればハッキネンの優勝。しかし、前を走るシューマッハーが少しラインをはずしたときハッキネンは追い抜きにかかってしまった。結局このオーバーテイクに失敗、ハッキネンはガードレールに激突!リタイアしたハッキネンはガードレール脇で泣き叫んでいた。
後に、「フライング・フィン」をもじって「クライング・フィン」とも揶揄されることにもなった感情を抑えることが出来ないハッキネン、それはそれだけ全霊を込めてドライブしていた証なのだろう。
翌91年、ハッキネンはライバルのシューマッハーよりも一足先にF1にステップアップ。低迷するロータスでその力を発揮し出す。ライバルに先を越されたと見られていたシューマッハーもシーズン途中よりF1に参戦。シューマッハーは中堅チームで有ったベネトンのシートを得て、またもハッキネンはシューマッハーに先んじられることになる。
セナが無くなった94年にはライバル・シューマッハーは初のチャンピオンを獲得。対してハッキネンはようやくマクラーレンでフル参戦のチャンスを掴んだものの、いまだ未勝利。差は広がったかに見えた。さらに、95年最終戦オーストラリアGPでは生死をさまようクラッシュに見舞われる。頭部を強打し重体となったハッキネンのレース生命は絶たれたかに思われた。
しかし、ハッキネンは生還する。その闘志と速さは失われていなかった。97年最終戦で参戦96戦目という遅咲きの初優勝を果たすと、その真価を発揮し出す。
翌98年、速さにくわえて強さと落ち着きを身につけたハッキネンはシューマッハーとの争いに打ち勝ちチャンピオンを獲得した。さらに99年はライバル、シューマッハーが事故で3ヶ月欠場という状況のなか、アーバインとタイトルを争う意外な展開となったが、最終戦日本GPで優勝を決め、2年連続のチャンピオンとなった。
ハッキネンのF1での最も印象的なシーンは、二つある。
一つは1999年イタリアGPでアーバインとチャンピオン争いをしていた際に自らのシフトミスでコースアウト、リタイアしモンツァの森で泣き崩れていた事。まるで、90年マカオの再現のように跪き泣き崩れるハッキネンをTVカメラは写し続けていた。
もう一つは、F1で最も勇敢で美しい追い抜きと思われる、2000年ベルギーGP。ロングストレートで、困難な路面状況をものともせず、周回遅れ共々シューマッハーは一気に抜き去ったシーンだろう。どちらもハッキネンを象徴する印象的な映像だった。
日本では、その端正はマスクから女性ファンを多く獲得していたハッキネン。某F1誌では人気投票で連続1位を獲得するなど不動の人気を誇ったが、彼はルックスだけではなくすばらしい速さと誠実さを持ったアグレッシブなドライバーだった。反面、精神的に若干のもろさも有ったのかも知れないがモチベーションの高さこそ彼の速さの源泉で有ったように思われる。
引退後、4年を経てハッキネンはDTMにメルセデス・チームから参戦する。やはり、走りたいという欲求が高まってきたのだろう。充電時間をおいて、再度走り出すハッキネンはどの様な走りを見せてくれるだろうか。
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