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テーマ:モータースポーツ(1597)
カテゴリ:記憶に残るドライバー
久しぶりに、記憶に残るドライバーを更新しました。今回は昨年限りでフォーミュラ・ニッポンを卒業した「服部尚貴」です。
なお、記憶に残るドライバーの新コンテンツは、今後は別館「All for WIN !」に掲載していきますのでよろしくお願いします。 服部尚喜の名を意識したのは、1989年の開幕戦、鈴鹿2&4を観戦したときだったと記憶している。何故、記憶に残っているのかははっきりしない。 服部尚喜は、翌1990年に全日本F3チャンピオンを獲得すると、1991年全日本F3000にステップアップする。ランキングは20位と厳しいものだったが、その年の終わりにはF1にコローニからスポット参戦も経験している。 もとより走ることが大好きという服部尚喜は、フォーミュラのみならず、JGTC、JTCCなどハコのレースでも参戦を続け、1996年にはJTCC(全日本ツーリングカー選手権)でアコードでチャンピオン獲得。JGTCでは2位、そして国内トップフォーミュラの新生フォーミュラ・ニッポンでも2位という結果を残し、国内トップレーサーとして地位を確立した。 1997年から服部尚喜はアメリカに活動の場を移す。この挑戦には、F3時代のマカオGPでの悔しさがあったという。市街地でのマカオGPのコースを攻められなかった当時の服部尚喜は、市街地レースにまた挑戦したいという思いが強かったのだという。 2000年、服部尚喜は日本のモータースポーツに復帰する。奇しくも高木虎之助がF1から日本に復帰した年だった。 2005年11月27日。服部尚喜は最後のトップフォーミュラでのレースを終えた。予選6位スタート。最終ラップでのガス欠ストップ。サーキットには彼の最後を見送るために多くのファンと仲間達が詰めかけ、彼のフォーミュラ卒業を祝った。 しかし、スーパーGTでは、まだまだ現役。参戦を続ける。まだまだ、彼の走りをみることができるようだ。 「レースもGTは続けますし、自分の中で引退という言葉を使うのは今回だけ。あとは自分の趣味として、ハコのレースは死ぬまで続けます」 服部尚貴のヘルメットには常に「EIKI LIVES」の文字が刻まれている。故・村松栄紀はF3時代に服部尚喜のライバルであり親友でもあった。村松栄紀は1990年に服部より一足早くF3000にステップアップし、早すぎる死を遂げた。それから15年以上が過ぎても、彼の名をヘルメットに掲げて共に走る服部尚貴。これも服部尚喜を物語る、一つのエピソードである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
服部さんて、2004年にウィーズマンの試乗記をやっていませんでしたか? 昨年は知りませんが...
(2006年02月04日 16時46分15秒)
MA1112さん
>服部さんて、2004年にウィーズマンの試乗記をやっていませんでしたか? 昨年は知りませんが... ----- こんばんは。はじめまして。 ウィーズマンってよく知らないのですが、色々な媒体での試乗やスポーツドライブの解説などもやっていますから、その中にあるのかもしれませんね。 メーカーのみならず、各メディアとも良い関係がある方ですから。 (2006年02月04日 18時28分25秒)
彼はどんなレースにも出場する本当の意味での「レーサー」だったと思います。
前にFポンからS耐久まで出場していたとき 「好きだからやってるんですよ」と言ってましたっけ。ファンにもいつもサインしてくれるし、おいらもそんな彼の姿勢が大好きでした。 (2006年02月04日 21時37分07秒)
はじめまして。しばらくPC不調で放置してて、今日気づきました。TBいただき感謝です。返礼を・・と、こちらにおじゃまいたしました。
服部さんのこと、とても丁寧にわかりやすく書いておられたので、勉強になりました。ありがとうございます。管理人さんのドライバーさんへの想いを感じます。服部さんは、あの時代の顔、という気がしています。走り続ける彼を応援したいと思います。 (2006年02月26日 23時20分15秒) |