sinokの【私情まみれの映画考察】

2010/01/30(土)22:20

『狼の死刑宣告』

映画「あ」行(36)

「こちら」から「あちら」へ行ってしまう男の話である。 普通のサラリーマンである主人公ニックは、ある日長男をチンピラどもの手で殺されてしまう。裁判では犯人に極刑を与えることができないと知ったニックは、自らの手で復讐することを決意するが・・・。 というのが、あらすじだ。 なつかしのチャールズ・ブロンソン(大好き)系の復讐劇というかヴィジランテ物なのだが、昔のものと明確に違うのが、「こちら」から「あちら」へという、劇的なまでの主人公の変貌ではないだろうか。 ニックの最初の復讐は、単なる衝動的なものだ。 有罪にしたところでたった数年の刑にしかならないと知り、瞬間沸騰で「ならば俺が」と思い込む。 思い込むが、銃もナイフも持ったことがないフツーの男ならば、「復讐」という妄想を頭にめぐらし、相手を殺す瞬間を思い巡らし、でも、結局実行できないのがほとんどだろう。 ところが、タイミングが彼の復讐を可能にしてしまう。 タイミングだ、偶然だ、めぐり合わせだ。 息子が殺されたのも、偶然あの場に居合わせたというだけ。 その犯人をニックが殺したのも、偶然のなせるわざ。 偶然の重なりが、ニックを二度と引き返せない道に誘い込んでいく。 復讐が復讐を呼び・・・その展開は確かにおなじみのものだ。 それでもこの映画が際立つのは、復讐によって変わっていく主人公を丁寧に描写していること。 最初に復讐を果たした後の、シャワーシーン。復讐のカタルシスはどこにもなく、あるのは深い後悔だけ。 だが怒りと衝動が後悔に変わっても、今度はギャングたちが復讐に燃えて襲い掛かってくる。 その復讐心はこちらから見れば理不尽なものだが、根本はニックと同じ心境だ。 終わらない復讐の連鎖に、今度はニックは恐怖する。そして、恐怖が絶望に変わったとき、ニックは最後の変貌を遂げる。 つまりそれが、「こちら」から「あちら」にだ。 父親から復讐者の顔に変わる瞬間、劇的にケビン・ベーコンの演技のベクトルが変わったのを見せ付けられる。 何かをそこに置いていった。われわれと共通して持っていたはずの何かを。 ワン監督は、ケビン・ベーコンの演技に、さらに風貌の変化を付け加える。 高級スーツから、革ジャンに、ナチュラルな髪型からスキンヘッドに。 その変化は、決して彼が「あちら」に行こうとしたわけではなく、息子の遺品を身にまとい、頭におった傷のために半端に剃った頭を、完全に刈り上げただけだ。 理由は、ある。あるがしかし。 そうして現れたのは、ギャングたちと寸分たがわぬ姿だと、当のギャングに指摘される。 このシーン、ともにベンチに座ったニックとギャングは、うり二つだ。 ワン監督はとにかく目で見せたかったのだと思う。普通の男が道を外れていくサマを。 いくつかの偶然と、その偶然の前にニックがとった選択が、いったい彼をどこに連れて行ったのか、監督はすべてケビン・ベーコンの姿で見せた。 一時期、この映画のように表裏のある役をやたらと演じていた印象があるが、やはり似合う。 ぜひともまたこんな振り幅の大きい役を演じてほしいなあ。 余談だが、この人、私と同じ誕生日である。光栄なようなそうでもないような・・・手放しで喜べないあたりはやはりこういう役柄がハマってしまう人だからか・・・。 優しくとも酷薄とも取れる奇妙な顔のケビン・ベーコンは、ニック役にぴったりだ。 復讐を終えたニックは自宅に戻る。 しかし、ビデオの中で家族と笑顔を見せる彼と、復讐を終えて自宅のソファに座るかれはもはや同じ人間ではない。 一頭の野獣が、屠る獲物を失い、途方にくれているだけだ。 家庭的なリビングにいるギャングのような男、カメラは正面からその姿を撮る。容赦なく撮る。異様な光景に、私たちは悲しみともなんともつかない感情に襲われる。 家に帰ってきたはずなのに、もはやそこは、彼には似つかわしくない場所となっていた。 復讐は終わることがない、というのは映画で良く聞く言葉だが、本当の復讐とは、帰る場所を決定的に失うということではないだろうか。

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