『ブラック・スワン』
怖い映画だ。映画を見ていて背筋に冷たいものが走ったのは久々のことだ。クライマックスでは「早くここ(映画館)から出たい」と本気で思った。もう観ていたくなかった。これ以上、主人公ニナの内面など観ていたくなかった。なのに目は離せない。瞬きすらしたかどうか。ナタリー・ポートマンに畏怖を感じる日がくるなんて思ったことはなかった。大げさではない。怖いのはニナの狂気だろうか?映画はほとんどニナの視点に固定されてる。そのうえで、明らかに幻覚と思えるシーン、妄想か現実か不確かなシーン、そしていくらなんでもこれぐらいは現実だろうと思えるシーン、その三つが重なり連続し、観客はニナの精神状態を共有する。ニナの見る幻覚は不気味だが、多少ホラー映画に慣れた人ならどうということはない。妄想と現実の境が不明確なのも珍しいことではない。心が壊れていく様そのものは、すさまじくはあれど、それほど怖くはない。怖かったことの一つは、ニナの視点の外にある演出だ。映画の宣伝で、黒鳥を踊るニナに黒い羽根が生え、黒鳥そのものとなってポーズをとるシーンがあった。よくよく耳を澄ませば、要所要所でひそやかに羽ばたく音がしている。そしてニナの肌には、羽毛が生えていくかのように、ざわざわと異様な鳥肌がたっていく。これは、クライマックスの舞台のシーンだけではない。もっと、ずっと前から少しずつ、ほんの少しずつ挿入されている演出。形を変えた一種のサブリミナル効果だろうか。自分の中の奇妙な不安の元はこれだと、映画の途中で気づいてしまったが、だからと言って怖くなくなるわけではなかった。展開は、わかっている。最後は黒鳥に目覚めるのだとわかっていた。それでもその不気味さに、怖さを感じずにはいられなかった。そして映画の宣伝どおり、ニナは黒鳥として生まれ変わる。観客がもっともスクリーンにくぎ付けになるシーン。演じるナタリー・ポートマンは鬼気迫る演技で見事踊り切る。これも怖い怖いが、しかし。私を怖がらせた二つ目。黒鳥を演じ終わり、ラストシーンで再び白鳥を演じるために控室に戻ったニナは、真実に気づく。その真実のあまりの恐ろしさに、彼女の顔は泣き顔になる。眉間にしわを寄せ、恐怖でいっぱいになった顔。そして鏡の前に座り・・・。ニナは一瞬、微笑むのだ。それで私は逃げ出したくなった。ニナが「向こう側」に行ってしまった瞬間だった。以降の5分あるかないかの時間、ナタリー・ポートマンはずっと私を震え上がらせていた。「向こう側」は、狂気ということではない。死でもない。何か、人としてこの世を生きようとする心持とは、違う心のありようだ。人であることをやめ、違う何かになることを選んだ心のことだ。『羊たちの沈黙』のレクター博士や『ノーカントリー』のシガーを例に挙げればわかりやすい。彼らは狂気の人ではなく、ただ人であることをやめた者たちだ。ニナは、ニナであることをあの微笑みでやめてしまった。彼女は白鳥であり黒鳥である。「白鳥の湖」という舞台の上でのみ生き、幕が降りればその存在は消える。終幕後に衣装とバレエシューズを脱ぎ、家へと帰るニナは、もういない。なぜ、という理由づけはいくらでもできる。母による抑圧、主役の重圧、ライバルの存在、嫉妬。それらすべてがニナを押しつぶしたのだと。だがそれではニナの心が不安定になっていったことは説明がついても、最後のあの満ち足りた姿の説明はつかない。つまるところ、彼女自身が望んだのだ。「白鳥の湖」を生きることを。白鳥と黒鳥の女王となること。ダーレン・アロノフスキー監督は、『ブラック・スワン』は前作『レスラー』の姉妹編として撮ったのだという。映画を観たあとでそのことを知り、ラストシーンのデジャヴはそれかと納得した。『レスラー』のランディも、ニナ同様向こう側へ行ってしまったから。あのとき、女はなかなか向こう側へは行けない、と書いたが、ニナは向こう側へと行ってしまった。女が向こう側へ行ってしまうのは難しい。ニナは、ランディと違ってかりそめの安らぎすら知らずに行ってしまった。男は、安らぎを置いていく。女は、安らぎを求めて行く。そこに本当に安らぎがあるのかどうかは、わからないが。男と女にはそんな違いがあるように思う。だから、『レスラー』を観たあと、私は深い悲しみに沈んだ。『ブラック・スワン』では、底知れない恐怖が残った。私は、あんなところには行きたくない。