人は言葉で人生を建築する
先日、rainbowさんのところから「あったまってほっとしタイ」を購入したという日記を書いたところ、rainbowさんがこの日記を、ご自分のブログに、「ありがたい日記!」と題して引用して下さいました。ありがとうございます。これを機会に「サマルカンドで朝食」を訪れる人が増えて、主の栄光といつくしみを一人でも多くの人へ伝えられますように。・・・とかいって、そんなホーリーなこと、最近一行も書いてないじゃん。夜空。シリウスがとってもきれい。21時くらいを過ぎないと、この裏門司と呼ばれる田舎でも、星空はくっきりしないようです。本当に久しぶりに、礼拝にあずかることができました。カトリックの夜のおミサでしたけど。荘厳な式文と、オルガン伴奏での典礼聖歌。アレルヤ唱。グロリア。じーんとしてしまって、毎週礼拝にあずかれる人が本当に羨ましく思えるほど、感激しました。福音朗読のあと、ルカ4章の、イエスがナザレの集会でイザヤ書を読む場面について、引用されたイザヤ書の「解放」も「自由」も、「赦し」と同じ単語が使われていたのだという神父さんの説教に、今職場で受けている圧迫や不自由さには、主のご意図があって、まだ解放は赦されていないのだろう、などと思いました。いつかはふさわしい「時」が与えられるのでしょう。外で猫が二匹、鳴いている。どんなに追っ払っても、通り道に栗のイガを撒いておいても、なぜか居座っている猫たち。うちは居心地がいいのかな。昨日ちょっと思ったこと。不平や悪口、卑猥な言葉を慎み、前向きな言葉を使うことの意味の一つに、心のお喋りを止める効果があるんじゃないか。人は考えるか感じるかのどちらか一方をしているもの。不満や愚痴を口にし始めると、考えるほうに傾いて、心がずっとお喋りをつづけてしまう。受容性が乏しくなってしまうんですね。もちろん、辛い心に共感することは大切で、苦しいのに、自分の心を騙して「感謝、感謝」とか言ってても仕方ないですけど。喜びの言葉、感謝の言葉は、心のおしゃべりにつながりません。むしろ次の喜びに向かって、受容性を深める働きがあるように思います。石で建築物を造るように、人は自分の吐く言葉で人生を作っていく。聞いていて気持ちのいい言葉、塩味のひと味効いた言葉、愚痴や不満や悪口でなく、小気味のいい言葉を上手に使いたいもの。そんなことをつらつらと思ってました。