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男の腕に ROLEX パールマスター 39 86348SABLV >>その一 から読む 工場の外でタバコを吸いながら、土砂降り雨を眺めていた。 無心に仕事をしていたせいか、休憩でほっとした途端、いろんな考えが勝手に、それも一斉に脳内で湧きはじめる。 考えといっても、その一つ一つはたいしたことじゃない。 この人生に何も期待はないな、とか、 このまま齢だけとっていくのはちょっと悲しいな、とか、 いったい世界中で一日にどれだけのトリが処理されていくんだろう、とか、 自分がトリでも今この工場で処理されるのはイヤだな、とか、 美人女優がコマーシャルで頬張っていたフライドチキンはどこの工場で絞めたトリだろう、とか、 そんな愚にもつかないことばかりだ。 僕には急いで解決すべき問題が何もない。 家族もいない。彼女もいない。同僚も友達もいない。 それらを変える意思もないから悩みもない。 僕は幸せなんだろうか。 見覚えのある白い軽トラックが工場の門をくぐって来た。 南さんの車だ。 午後の肉を引き取り、午後のトリを搬入するのだ。 夜明けにしたのと同じように、雨の中を軽トラックを誘導し、搬入口までバックさせた。 「ほら、誕生日プレゼント」 車を降りるなり、南さんは、コンビニのポリエチレン袋に入った弁当を、僕に差し出した。 「え?」 「どうせ食べてないんだろ。ざるうどんでいいか」 「あ、はい。大好物です」 袋の中にはトレイに盛られた冷やしうどんのほか、ペットボトルの緑茶まで入っていた。 お礼を言おうとして、声が詰まった。 「おい、泣くなって、こんなところで」 「すみません。感激してしまって、つい」 涙をぬぐって、さっそく弁当のフタをとった。 「うどん一つで感動するんだからなあ。可哀想なやつだ」 「うどん、うまいです」 実際、コンビニのうどんは腰もあり、喉越しもよかった。 世界でいちばん旨いうどんだと思った。 「欲しいものも、必要なものも、何もないという人生は、実に幸せなものですね」 うどんをすすりながら、しみじみと僕は言った。 「ああ、だから社会は人間の幸福を望まないんだよ。西田みたいに物を欲しがらないやつばかりだったら、経済が停滞するからな」 うどんを食べ終わって、生きたトリ入りのプラスチックケースを、南さんと僕とで工場に搬入した。 そのあと、空になったケースと、処理した肉のうち、道の駅に置く分を、南さんに渡した。 「さすが西田だな。あれだけ悲鳴をあげていたのに、文句も言わないでちゃあんと片付けてるじゃないか」 南さんは感心したように言った。 それで、そういえば文句を言う機会を失っていたなと僕は気が付いた。 伝票を受け取り、南さんの軽トラックを見送ってから、また衛生服を着込み、消毒ガスを自分に噴射して、僕は工場内に入った。 脱羽機にこびりついた羽毛をこそぎ取り、湯浸け機に注水して温める。 と、その時僕は一匹の蝿に気がついた。 衛生第一の食鳥工場だから、蝿はいただけない。 かといって殺虫剤などは言語道断である。 蝿叩きで葬るしかない。 仕事の内には入らないが、後まわしにもできない。 早速、蝿叩きを持って退治にかかる。 だが、蝿を追っているうちに、どうやら一匹ではなく二匹いることに気がついた。 どちらもイエバエだ。 蝿はふと消える生き物だ。 実際に消滅してしまうわけではないが、目で追う早さよりも早いスピードで方向転換するため、姿をつい見失ってしまう。 その飛行技術の鮮やかさには、いつも舌を巻く。 廃棄用のバケツにとまったところをパチン、とやる。 一匹退治に成功。 それにしても、あの鮮やかな飛行に用いる道具は、この薄っぺらい翅二枚だけという事実に、畏敬の念すら抱く僕はおかしいだろうか。 蝿に限らない。蛾の仲間では、こんな形の翅で飛べるはずがないと思えるような者もいて、実際にはそれで見事に飛んでいる。 飛ぶという移動行為をもっとも会得している生物は、鳥類でも蝙蝠でもなく、昆虫ではなかろうか。 昆虫が飛ぶようになったのは、四億六千万年前のデボン紀だという。 脊椎動物がようやく水から陸へ上がった頃、昆虫はすでに空を飛んでいたことになる。 脊椎動物で初めて空を飛んだ翼竜が、約二億年前の三畳紀。 アーケオプリテクス(始祖鳥)の登場が、一億五千万年前のジュラ紀であることを思えば、歴史の差は明白だ。 蝿のあの華麗な飛行技術は、他の追随を許さない、四億六千万年の歴史に磨き抜かれたものだといえる。 何が言いたいのかといえば、四億六千万年の歴史を相手に、僕は蝿叩き一つで立ち向かわなければならないということだ。 ようやく二匹目の蝿を退治して、手を洗い直してから、三畳紀前期に現れた主竜形類の子孫であるトリの処理にとりかかった。 クリックをお願いします↑ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.11.18 22:44:04
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