2009/12/17(木)03:37
動機説と結果説
本日はちょっと哲学的なお話を。タグは、
心理学タグです。わざわざ哲学タグを
設けるのがもったいないので。
自分は結構短気な性格でして、ちょっとしたことで
腹が立つことが多々あります。とはいえ、一応理にかなっているとは
思います。他の人はそれを許せるし、気にしないというだけで。
例えば、店員がお札に小銭を紙幣とレシートの上に乗せて一気に
お釣りを返してきたら腹立ちますね。財布に入れづらきことこの上なし。
後は、私が小銭を数枚出した時点で、最終的に出す額を勝手に予測し、
私が全てを出し終える前にその額で勝手にレジを打つ店員には苛立ちを覚えます。
早く出し終わるよう急かされているようで嫌なのです。
そういう時は、出せるのにあえて出さないというプチ復讐をします。
それまで出してきた小銭を土壇場で回収し、違う額で払います。
店員はレジ打ちを訂正しなければなりません、残念。
・・・・・心が狭いのが悩みです。
今のように相手に復讐をしたいと思う時があるわけですよ。
けど、それを大々的に実行することってほとんどありません。
上の例では、私の復讐による店員の不快感と店員の行為による
私の不快感がイーブンというか、どちらも大したことをしていません。
プチ復讐ならすることもあるんですけど、それ以上は
しません。何故なら、私は最後の審判を信じているからです。
馬鹿にされるかも知れませんが、生前に悪いことをした人は死後に地獄に落ち
永劫に苦しむという思想です。もう一つの理由は、周りへの後ろめたさです。
もしも復讐現場を誰かに目撃されたら・・と思うと、とても
できませんね。心が狭いうえに気が小さいのです。
その代わり、相手の陰口を言ったり心の中で相手を八つ裂きにしたりして
上手くストレスを解消しています。
そういうわけで、大して悪いこともせずに生きています。
けど、本当に地獄に落ちないで済むんでしょうか。
だって、純粋な相手への思いやりや許容から悪いことをしない
わけではないんですよ。ただの自己防衛です。自分が
それ以上に損をする可能性があるから、しないだけです。
もし、悪いことをしても一切の罪にはならないし損もしないので
あれば、私はじゃんじゃん悪いことをしているでしょう。
それって、天国に行く価値ある人間だとは全く思えないのです。
むしろ、地獄に落ちるべきなのではないかと。
結果的に正しく生きているから是とされるべきか、
動機が不純だから否となるのか、
それが問題です。哲学の世界では前者は結果説、後者は動機説と
言います。動機説に立つ哲学者カントなら、結果的に
良いことをしようが、それに至る考え方が倫理的ではないので、
その行為は倫理的ではないと判断します。
私はもちろん結果説に立ってくれないと地獄に
落ちそうなので結果説を支持します。人間、
そんなに良くできたものではありません。
心がどうあれ、悪いことをしていなら良いじゃないですか。
けど、完全な支持はしません。何故なら、
結果説に立つと、有名人の売名行為を
許してしまうからです。よくあるじゃないですか。
環境保全団体にお金を寄付して、イメージアップを
図る戦略などです。ああいうのは、汚いなって
思いますね。しかし、お金を寄付している
という行為自体はやっぱり賞賛に値するので、
そこまで邪険にはできないです。だから、
どちらかというと結果説寄りという立場に
おさまっておきます。