『同志少女よ、敵を撃て』の解説の中で、映画「スターリングラード」を紹介しました
本とともに〜『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬 | MORITA in Cyberland - 楽天ブログ

同志少女よ、敵を撃て (ハヤカワ文庫JA) [ 逢坂 冬馬 ]

【中古】 スターリングラード<DTS EDITION>/ジャン=ジャック・アノー(製作、脚本、監督),ジュード・ロウ,ジョセフ・ファインズ,レイチェル・ワイズ,ボブ・ホスキンス,エド・ハリス,ジョン・D.スコフィールド(制作),ジェームズ・ホーナ
ソ連を舞台にした狙撃兵の話、という意味では、響きあう物語なのですが、
私がこの本を読みながら思い出していたのは、「ジャーヘッド」でした。

ジャーヘッド【Blu-ray】 [ ジェイク・ギレンホール ]
舞台は1990年。
アメリカとイラクによる「湾岸戦争」が行われる中、スオフォードは過酷な訓練を受けて海兵隊員となり、サウジアラビアへと派遣されます。
そこで待っていたのは…「待機」の日々でした。
仕事はサウジアラビアの油田警備。
「敵」は一向に現れず、磨いた技術も、活かされることなく、さらなる訓練と見回りだけが課せられ…。
映画はひたすらその何もない「平和」な生活を描き続けます。
一方で待ちに待った「戦争」は過酷なものでした。
空爆によって殺された敵兵の死体、アメリカ軍(味方)による誤爆、油田の炎上による黒い雨…。
そんな中、ようやくスオフォードに狙撃命令が下ります。
管制塔にいる敵の将校に照準を定め、引き金に手をかけ…。
この映画の恐ろしいところは、主人公に感情移入しながら見ているうちに、「引き金を引いて欲しい」と思ってしまうようになることです。
主人公を戦場に連れて行ってあげて欲しい、主人公に人を殺させてやって欲しい、本来であればモラルから逸脱したそんな感情が、見ているうちに湧いてくるのです。
「戦争」というものが、どれほど人に高揚感を与え、自己正当化を伴うものなのか、この映画を観終えて、「引き金を引いて欲しい」と思った自分自身も含めて、そら恐ろしい気分になった映画でした。
『同志少女よ、敵を撃て』にも、これに通じるものがあります。
主人公に感情移入すればするほど、「私は〇人殺した!」と自慢する彼女の異常さに気付けなくなっていくのです。
この小説が良く出来ているのは、彼女や仲間がそういった自慢をする時、必ずたしなめてくれる人が周りにいる、あるいは後悔させる物語が用意されていることです。
タイトルが回収されるシーン、漫画ではよく盛り上がる場面として描かれますが、この小説のタイトル回収はとても残酷です。
しかも、その後に用意された物語を読むと、本当に撃って良かったのか、読んでいる側が混乱に突き落とされます。
また主人公が狙う「敵(かたき)」も、その基準で考えるならば、戦うべき相手だったのか、戦争がなければ、どういう出会いをしていたのか、考えさせられます。
もともとは外交官を目指してドイツ語を学んでいた彼女が、「敵を狙撃する」という形でドイツと対峙せざるを得ないという状況は、皮肉以外のなんでもありません。
「敵」だから殺して良いのか、「倫理」に反するから殺して良いのか。
殺されたそれぞれには、戦争さえなければ、殺されなければ、それぞれの生活が、未来があったはずだと気付いた時、「正義」の在処は行方不明になってしまいます。
戦争に行きたい、自分の子供を戦場に行かせたい、そんなことを思うことはない、と言いたいところですが、自分たちの国が戦争に巻き込まれた時、国の空気がそうなっていた時、果たして「良心的徴兵拒否」など出来るのでしょうか。
ひとたび戦場に出た時、人を殺さずに帰ってくることは出来るのでしょうか。
武道には「鞘の内」という言葉があります。
剣を抜く前「鞘の内」にあるうちに、争いを収める、という言葉です。
いわば外交、諜報戦がそれにあたるでしょう。
様々な国から不協和音が聞こえてくる中、改めて、世界の平和を願いたいものです。