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カテゴリ:いろいろメガネ
各党のマニュヘストを読むと、頭が良くないなと思うことがよくあります。 たとえば高校まで授業料を無料化するというような公約があります。まあ、予算があまっているなら悪いとはいいませんが、出すのなら高校に通わせることが負担になっている(所得の低い)家庭にだけ支給すればいいのです。 たしかに親にとっては、授業料の負担がなくなることはありがたいことでしょう。しかし、そこでの負担増はかならず他の削減に向かいます。具体的には、学校の設備や運営費の削減です。 僕も学校に出入りすることがあったり、教師をしている友人も多いのでよくグチを聞きますが、真の学問・学究の場としては、目本の学校はほんとうにお粗末です。 本気に学びたいと思うと、なんとも中途半端です。本も満足に揃っていません。望遠鏡、顕微鏡なんていうもの、あってもほんのあてがいぶち、はじめから予算が足りていません。教育設備ということになると急に貧しい気配が漂うのがこの国です。 ほんとうに政治が教育のことを考えているなら、そういうところにこそ予算をしっかりつけるべきです。学校に席だけおいて遊びほうけている子にまで、年収ン千万という家庭の子にまでバラ撒きをする必要はありません。 それと、社会のために学ぶということと、個人が学ぶということを、明確に分けてとらえる必要があります。社会のために学ぶことには、しっかり予算をつける。個人として学ぶことは個人が負担するということです。 僕のやっている川柳も学校教育に入れろとがんばっている人がいます。しかし、川柳にかぎらず芸術というものは学校教育の中で扱わないほうがいいと思います。 芸術はほんらい個人の学びの権化みたいなジャンルです。個人があくまで個人でいられるか、いられないかが勝負どころなのです。個を磨いてこそ芸術の価値があるのですから、一律に教育的一般化を企てると必ず矛盾が生じます。 ただ誤解して欲しくないのは、読み書きソロバンというような、基礎的知識は必要です。これは、芸術にかぎらず最低限の基礎でしょう。 僕は母校の同窓会の役員をしているときに、芸術コース、福祉コースなどの設置をうっかり提案したら、通って実現してしまいましたが、そうしたコースのなかからは例えば絵の上手な子はできても、芸術家はでにくいでしょう。 たとえば、天才的芸術家だったモーツアルトの、ほとんど同一のフレーズが違う曲のあちらこちらに出てくるやり方について、教育的説明は無理だとおもいます。ピカソや池田満寿夫の画風の変わり目と女性遍歴の因果関係を教室で教えるには無理があると思うのです。 個がまなぶべきことは、個にまかせるべきなのです。わざわざムダ金をつかって、個ののびやかさを失わせ必要はないのです。 励ましのクリックを お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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