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2024/04/06(土)07:57

インディ・ジョーンズ  最後の聖戦  Indiana Jones and the Last Crusade

映画(545)

ストーリー: 1912年、アメリカのユタ州。中世史教授を父に持つ13歳の少年インディ・ジョーンズ(リヴァー・フェニックス)は、砂漠の岩山の下の洞窟で、3人の悪党が宝の十字架を盗もうとしているのを目撃し、それを奪い逃亡するが、結局悪党一味に丸め込まれてしまい、彼の知恵と勇気をほめる悪党の1人からカウボーイ・ハットを受け取るのだった……。 それから26年後の38年、ニューヨーク大学の考古学教授で冒険好きのインディ(ハリソン・フォード)はある日、富豪ウォルター・ドノヴァン(ジュリアン・グローヴァー)のペントハウスに連れてゆかれ、責任者の失踪によって頓挫している、磔にされたキリストの血を受けた聖杯の発見を依頼される。 はじめ渋るインディは、行方不明になったのが父ヘンリー(ショーン・コネリー)であることを知り、それを引き受けた。ところが友人で父の旧友の考古学博物館長マーカス・ブロディ(デンホルム・エリオット)と共に父の家に向かったインディは、家が何者かによって荒らされている事に、その理由は父から送られてきた聖杯探索の調査記録であることを直感する。 インディとマーカスは、ヴェニスで父の同僚シュナイダー博士(アリソン・ドゥーディ)と合流し、古い教会を改装した図書館を訪問、父の聖杯日誌のおかげで地下墓地を発見し、聖杯のありかの手がかりをつかんだ。 そしてインディは、悪者の手から聖杯を守るべく活動してきた<十字剣兄弟団>のカジムから、父がオーストリアとドイツの国境にあるブルンワルト城に閉じこめられていることを聞いた。 シュナイダーと共に城に向かったインディは、ナチも聖杯を探していることを知り、幽閉されていた父との再会もつかの間、シュナイダーの裏切りによってインディ親子は残忍なフォーゲル大佐(マイケル・バーン)の捕虜にされ、聖杯日誌も奪われてしまう。 何とか城から脱出したインディとヘンリーは、さまざまなトラブルの末、最後にはフォーゲル大佐との一騎打ちとなり、命からがら勝利を収めるが、聖杯が隠されている<太陽の神殿>に向かい、ウォルターやシュナイダーを始めとするナチの探検隊に捕まってしまう。 インディは、ウォルターによって腹部を撃たれたヘンリーを助けるために、3つの難関を乗り越え、聖杯を手にするが、その瞬間神殿が崩れ始め、聖杯獲得に色気をみせたシュナイダーは、聖杯と共に神殿の底に沈んでいった。 結局聖杯を手にすることはできなかったが、インディとヘンリーは改めて親子の愛情を確認しあうのだった。 (KINENOTE) 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(Indiana Jones and the Last Crusade)は、1989年に公開されたアメリカ合衆国の映画。 製作総指揮のジョージ・ルーカスによる原案を基に、スティーヴン・スピルバーグが監督を務めた。 出演はハリソン・フォード、ショーン・コネリー、アリソン・ドゥーディ、ジュリアン・グローヴァー、リヴァー・フェニックスなど。 考古学者のインディアナ・ジョーンズが父親と共に、ナチス・ドイツ軍との争奪戦を繰り広げながら聖杯を探すアクション・アドベンチャー作品であると共に、少年時代のインディアナも登場しそのルーツが明かされる。 「インディ・ジョーンズ」シリーズの第3作である。127分 映画のオープニングをどうするか悩んだ際、ルーカスはインディの少年時代をプロローグとして描くというアイデアを思いつく。ボアムも、インディのキャラクターを深く掘り、観客に現在のインディ・ジョーンズ像がどのように誕生したかを見せたいと考えていたことからこれに賛成した。スピルバーグは当初「子供が登場する映画を作りたくない」とこれに反対したが、最後はルーカスの説得により同意した[16]。 本作は、比較的ロケ撮影が多い。 主要撮影は、1988年5月16日にスペインのタベルナス砂漠(英語版)で始まった[13]。 ベニスでの撮影は1日で済ましており、午前中に観光客を制限し行われた。撮影監督のダグラス・スローカムによると、撮影する建物に設置されたテレビ放送を受信するアンテナが見えないようカメラを配置することに苦労したという[13]。図書館の外観には、サン=バルナバ教会(英語版)が使われた。ブルンヴァルト城の外観は、西ドイツ(当時)のビュレスハイム城(ドイツ語版)で撮影された。なお、映画では城の一部をマットペイントで拡張している。城の内部は、イギリスのエルストリー・スタジオ(英語版)で行われた。聖杯のある神殿は、ヨルダンのペトラ遺跡にあるエル・カズネを使用し撮影された。3日をかけて行った撮影はヨルダン政府が全面協力しており、フセイン国王とヌール王妃が子どもを連れて毎日見学に訪れたという。スピルバーグは後に「ヨルダンでの協力は素晴らしかった」「彼らは私たちに国を開放し、私たちをとても歓迎してくれました」と振り返っている[25]。 ロケ撮影が行われたペトラは、公開後に世界的に著名な観光名所となり、公開前は年間数千人だった観光客が、公開後は年間約100万人にのぼるにまで成長した[35]。 少年時代のインディの場面は、メサ・ヴェルデ国立公園で撮影する予定だったが、居住する先住民が宗教的な理由から反対を受け、最終的にユタ州のアーチーズ国立公園で撮影された。また、撮影には登場しないフォードも立ち会いフェニックスの役作りを助けており、フェニックスは「映画の冒頭、ほんの10分の場面だが、撮影はとても楽しかった」と語っている[25]。 プロローグでの蒸気船の戦いは、エルストリー・スタジオに構築された(18x12メートル)のセットで3日をかけて撮影され、それぞれ300インペリアルガロン(1363リットル)の水を使用した[25]。インディ親子によるバイクのチェイスシーンは、スピルバーグが撮影フィルムを編集中に「思ったほどアクションが少ない」と感じたことから、急遽追加撮影されたものである。撮影は、タマルパイス山とルーカスフィルム本社の敷地内にあるスカイウォーカーランチで行われた[26]。(ウィキ) 前作に比べると暗さがなくて、生き生きとした冒険活劇でした。 冒頭の少年時代の鉄道でのチェイスシーンが一番よかったです。 ショーン・コネリーは期待したほどではなくて、それなりにでした。 ペトラに100万人というのはすごいですが、映画に影響されて訪問というのはありますね。 私の場合は、「旅情」を見てベネチア、「チップス先生さようなら」でポンペイ、・・・です。

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