日々草

2010/02/26(金)10:40

マカオ今昔物語(その2)

マカオ今昔物語(8)

マカオ昔(1960年代) 1960年代の日本は、戦後の混乱から、朝鮮特需によって、 本格的な復興をとげ、高度経済成長を遂げようとした時代である。 戦前の価値観とは全く異なる、大量消費文化に突入。 農村の労働力が集団就職して都会へと大量に流れこみ、 農村の崩壊が急加速した時代である。 所得倍増のかけ声に、アメリカ流の豊かな消費生活に憧れ 懸命に仕事した時代である。 1960年代の中国は、 共産主義建設の路線をめぐって文化革命の嵐が吹き荒れていた。マカオはポルトガルの統治下にあり、 政治的にはその革命の嵐の外にあったといえ、 経済的には、沈滞していたといえるのではないか。 マカオを象徴する世界文化遺産1960年代の サンパウロ天守堂 1602年~1640年にかけて建造された聖母教会。「ローマ以東で最も傑出した教会」と 言われた壮麗な教会。施工には、中国人のほかに長崎から幕府の弾圧を逃れて渡った 日本人のキリスト教徒たちも多く加わった。 東洋におけるキリスト教布教の拠点として、大きな役割を果たしてきた。 日本のキリスト教史にも重要な教会である。現在は1835年火事で焼失して聖堂の正面ファサードのみである。    2010年の 聖パウロ天守堂は 天守堂へと続く 階段や その脇の道は、 植栽され、 美しい公園と なっている。 春節の飾りも、 更に華やかさを 添えている   サンパウロ天守堂から見下ろした坂道 1960年代の坂  人影もまばらで寂しい坂道。  バックの街並みも家屋は廃屋のよう、空も広く開けている     今のサンパウロ天主堂から 眺めた坂道  人、人、人観光客で 混雑し 賑わっている 麓の街も高層ビルが林立 1960年代 サンパウロ天守堂に続く道  観光客というよりも、マカオに住む人々の生活の日常の光景    同じアングルからの 今  人の賑わいや 道路脇の 建物も 豊かさや活気が 溢れている エネルギシュな街    1960年代のモンテの砦 (サンパウロ天守堂の右手の位置する防御施設。1617年から1626年にかけて イエスズ会との協力で築かれた。中世のヨーロッパの城砦の文化を持ち込んだものといえる)  火炎樹が立ち、子どもたちが坂で遊んでいます。   この斜面は、現在は公園として整備され ガジュマルの大木に覆われ サンパウロ天守堂からモンテの砦は 今では眺望できなくなっています。  1960年代  モンテの砦からのサンパウロ天守堂の眺望は こんなに開け、対岸の朱海市も見渡せた       同じポイントから撮影した サンパウロ天守堂 高層ビルが林立し 対岸を見渡せないだけでなく 手前も公園の樹木によって 天守堂の階段や坂は 見えなくなっています    この写真は1960年代 ペニャ教会が立つ「西望洋山」という更に南に位置する丘からモンテの砦を撮影したもの     2010年  ペニャ教会の立つ 丘より麓の高級住宅街を 撮影したもの木陰から垣間見える 左端の茶色の建物は 現在の ポルトガル領事公邸      同じアングルから撮影した  1960年代の景色    中央の建物が現ポルトガル領事公邸 40年前は旧ベラ・ビスタ・ホテル マカオは16世紀から、西洋と東洋を結ぶ貿易の中継地として 盛衰を繰り返してきた。西洋列強の外交官や商人たちの社交場 リゾート地としての特色を持ち、カジノも其れと共に発展した。 1960年代のカジノ         2010年 不夜城のごとく 夜も休むことない街 カジノ     美しく整備修復された街並み  40年前のマカオの町並み  人影もまばら   西洋と東洋を結ぶ、ある時は、海のシルクロードとして またある時は、東洋へのキリスト教布教の拠点として西洋と中国を融合し共生した400年余りの歴史を生きて来た  マカオは今、 その歴史の文化遺産を観光資源として、 中国本土から膨大な人々を招き寄せる観光の街として、 驚くべき発展をとげ 活況を呈している日本にもカジノをつくり、街を再生せよという政治家がいる。 猿真似の付け刃で、カジノを導入して 街や村が真に再生は出来ないのでは。 マカオの歴史はその事を物語っている。 即ち マカオの観光、カジノの街としての繁栄は 長い歴史の継承としてあり、 突然に今出現したものでないということである。この意味で、マカオの今の盛況は その歴史的必然なのである。1)マカオに咲く亜熱帯の花々 2)マカオ今昔物語(その1)(その2)に続き、 次回は マカオの世界文化遺産(1)を紹介します。

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