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テーマ:たわごと(26656)
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前にも書きましたが、5日目の朝、老師から「片付けるとはどういうことか?」と訊かれて、答えられませんでした。
そして、昼食後、助けられながらも答えが判りました。 !!! なあんだ、気付いてみると、老師は前に答えをちゃんと教えてくれていました。 しかし、捉われていると悲しいかなそれが分からない。でも、ほとんどの人は、そういう状態で生きている。だから、苦しいのです。 そして、昼食の後片付けを一人でしました。 坐禅、食事、寝ることなど生きるために必要なこと以外で、少林窟で初めての作業でした。 食器の数が多くて大変でしたが、だんだん作業に集中して、すがすがしさがありました。 夕方には5日ぶりにお風呂に入りました。その気持ちよかったこと! そして、夕食にはお祝いといって、おいしいトンカツが出ました。私のために用意していただいた、そのお気持ちがうれしかった。もちろんとてもおいしかった。この頃には、無駄に会話を交わさず、ただ食べることに成り切って、味わうという感覚が鋭敏になっていたため、なおさらでした。 夕食の後の法話で、老師に「ここからが境涯辺ですよ」と言われました。 境涯辺というのは、坐禅をして只呼吸そのものに成り切り、自他の隔てがない状態のことを仰っているのだと思いました。今の自分は、わずかしかその状態を維持できないけれど、その状態を続けて錬りこんでいく、それがこれからの課題だと解釈しました。 そして、老師が去り際に急に戻ってきて、「昼間片付けをしてどうだった?」と私に尋ねられました。すっかり、油断していた私は、やや混乱していつもの癖でつい頭で考えてしまい、昼間頭をよぎったことを答えました。これまで、みなさんに片付けをしてもらってありがたかたったとかなんとか。 すると、老師は、「それは理屈じゃ。ありがたい云々は煩悩じゃ。まだその程度か。みんな、嗤ろうてやれ。」と言って去って行きました。 私は、「ほんとにそうだな。はははっ。」と内心で自分を笑いました。そして、禅堂に戻った時、再び新鮮で、軽ろやかな気持ちで坐禅に取り組むことができたのです。 そして、その先、坐禅から帰った時、何となく自分が大変な経験をしてきたような気になって、周りで普通に仕事をしている人をあやうく見下しそうな気持ちになったときも、私を救ってくれました。 老師から頂いたご本に載っていた少林窟の先師の言葉にこういう言葉があります。 「うたた悟れば、うたた捨てよ」 悟りが進めば進むほど、どんどん捨て去りなさいという意味です。自分を大したものと思った瞬間、進化はそこで止まります。 老師もまたいつか歩いた道なのでしょう。正しく導いて下さる師がいるということは本当にありがたいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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