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そういちの平庵∞ceeport∞

そういちの平庵∞ceeport∞

敗戦記念日

8月15日は、終戦記念日ではない
日本語として間違っている
ちなみにお隣韓国では光復節という・・・日本の支配からの開放の意だ
日本はアメリカに負けてアメリカの属国になった
憲法の草案もアメリカが作った
アメリカの経済を支えた
共産主義の防波堤役を担い、小さな島国ながら、
りっぱにその役目を果たした(自民党にはそのためCIAから資金が提供された)
果して言いなりになるしかなかったのか?・・・僕は疑問だ
日本人はいろいろなことを忘れやすい
いや知らないのだろうか?
それとも考えないのだろうか?
僕が書いたことも知らない人が多いのではないかと思う。

以下は精神病と戦争についての著作から引用する

私たちはより人間

                    藤井わらび
ねぇ、お姉さん
そんなに心配することも、そんなに怒ることもないのよ
だって、私たちのそばには神さまがいらっしゃるから
必ず報いられるものなのよ

明日は終戦記念日ね
多くの精神障害者が餓死していったわ
彼らは邪魔者として隅へ追いやられ
「生きる」ことを奪われた
今も光が当たらない

私たちは最期まで生きましょうね
浮かばれない先輩たちの分まで取り戻しましょうね
私たちが「生きる」社会は豊かになる
先輩たちの祈りを実現させましょうね
私たちは人間    
より人間

「未復員」という言葉をご存じだろうか?

 今ある精神科を中心とした国立病院(療養所)はその前身が日本軍の病院で
あった例が多い。
関東でいえば国立武蔵療養所(現国立精神神経センター武蔵病
院)、下総療養所などである。

戦争中に今でいうPTSD(心的外傷後ストレス症候
群この場合戦闘の中でそのショックで発病すること)に病む兵士の増加に対応して軍はこれらの病院を作った。

戦場からこれらの病院に送られた兵士たちは、敗戦後も差別ゆえに故郷に帰ることができず、「未復員」という状態のまま閉鎖病棟に拘禁され続けた。

その中には朝鮮人でありながら「戦犯」とされ、そのショックで発病し下総療
養所おくられ、拘禁のまま閉鎖病棟で亡くなった方もおられる。

広島長崎の被爆者の悲惨はこの比ではないかもしれない
何しろ被爆で地獄を見たアト
被爆者と結婚するな(遺伝子が破壊されている可能性があり原爆症の遺伝のもんだいがあった)
こんな中精神病になったり自殺して行った人が沢山いるのだ
今も生き原爆の悲惨を語るばあちゃん達はこんな地獄を潜り抜けてきた

渓さんいう人は国立武蔵療養所に収容されていた日本軍兵士を詠っている。

戦いにこころ病み果てし声らいずこ在りし跡 官舎の新壁匂う

戦争にこころ病み38年“未復員”の人らをわが告ぐ2・11集会
       『「火」以後 渓さゆり歌集』(六法出版社)より

「かわいそうな象」という話がある、戦争中に上野動物園で、動物たちが毒殺さ
れたが、賢い象は毒入りのえさを食べず、飢え死にしたという話だ。
しかし同様に檻に閉じ込められていた精神病院入院患者が餓死させられたことはあまり知られていない。

たとえば都立松沢病院では1938年ごろから死亡率が増大し始め、敗戦の年
1945年にはなんと入院患者の4割が死亡した。全国の精神病院はどこでも多かれ少なかれ同様の歴史をもっている。

マラリア注射により家族の入院患者を「処分」された、という中宮病院入院患者遺族の証言もある(『声なき虐殺』 塚崎直樹編 BOC出版 1983年)。

ナチスのユダヤ人虐殺に先立ち、「精神障害者」や身体障害者が組織的に虐殺されていたった歴史同様に、日本でも精神病院入院中の患者は食料不足のまま放置され餓死し、そしてあるときは意識的「処分」までされたのである。

「未復員」の方たちはすでに閉鎖病棟の中で闇から闇に葬られた。ドイツでも戦後「精神障害者」虐殺に加わった精神科医が大学教授を続けていた実態があったが、ようやく70年代ころから「精神障害者」虐殺問題が告発されるになり、戦争中の「精神障害者」の問題に関しさまざまな調査研究および闘いが今も続けられている。

精神病院の未復員兵については以下の本があります。絶版ですが図書館にはある
はずです。TBS(だったと思いますが不確か)で国立武蔵の未復員のかたをテーマ
にした番組を作ったプロデュ―サーの書いた本です。
『さすらいの<未復員>』 吉永春子 筑摩書房1987.7


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