1343553 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

そういちの平庵∞ceeport∞

そういちの平庵∞ceeport∞

ウォルト・ホイットマン

Walt Whitman(ウォルト・ホイットマン)1819~1892
ニューヨーク市郊外で生まれる。生きてる間彼の詩集は全く売れず
100年後に僕の評価は決まると言いながら死んで行った

ウォルト・ホイットマンは、ニューヨーク州のロングアイランドで1819年に、9人兄弟のうちの2番目の子供として生まれた。
彼の父は農民であったが、生活の貧しさのために、1823年に一家を引き連れてブルックリンに移った。
新天地で父は大工として働きだしたが、一家の生活は改善されず、ホイットマンは家計を助けるために、
11歳のときにはすでに、弁護士事務所の使い走りとして働き始め12歳で初等学校を終えると、本格的に印刷業界で働きだした。
そして1840年代には、大衆雑誌のために記事を書いたり、ニューヨーク市の幾つかの新聞の編集をも行うなどして活躍し、
さらに1846年にはブルックリンの新聞「イーグル」の編集者としての職に就いた。
しかし1848年に突然、新聞「イーグル」の社主から解雇を言い渡され、失意のままホイットマンは旅に出ることになる。
その当時のホイットマンは「自由土地主義的な(free soil)」信念を持っていた。
つまり、アメリカが新しく準州とした土地に奴隷制度を導入することに反対していたのである。
この態度は、新聞社の社主の政治的な主義と相反するものであったため、ホイットマンは、新聞編集者としての職を失うことになったのである。
そして傷心旅行から戻ったホイットマンは、一旦は出版業界に戻るが、結局は政治に失望し、ジャーナリストとしての一線を退いたのである。
1861-65年の南北戦争の間は、負傷兵の看護を手伝う傍ら、政府の下級官吏としても働いている。
1873年に手足が麻痺するという発作に見舞われ、ホイットマンはニュージャージーのカムデンに住む弟のもとに身を寄せ、その地で1892年3月26日に亡くなるまで過ごした。
少々長くなったが、以上が、ホイットマンの生涯の概略である。
 さて、ホイットマンの存命中、詩集『草の葉』は第9版まで出され、版を重ねるごとに紙面を追加していったのであるが、初版が出されたのは、1855年6月の初旬のことであった。
95頁という薄い四つ切り版で、根や葉、芽や小さい花をあしらった緑の布綴じの装丁であった初版は、ニューヨークとブルックリンのいくつかの書店で売り出された。
(ちなみに、岩波文庫の『草の葉』のカバーはこの初版をもとにデザインされているのであろう。)
初版は、自費出版で800 部程度印刷されたのであるが、その大半が売れ残ったと伝えられている。
ともかく、『草の葉』の詳しい内容や特徴などは、ホイットマン関連の多くの研究書が出されているので、専門家にお任せすることにしよう。

この所、彼の詩や日記の文庫を寝床に置きパラパラめくる
不思議な人だと思う
彼には何が見えてたのだろう?
何で此処まで信じきれるのだろう?
人間の美しさや善良さや悪徳や醜さを・・・それらこそが自分自身だと彼は歌う
こんな風に全てを肯定出来たらなと思う
死が全てを清めてくれると言うフレーズが昨日読んだ日記の中にあった
死や病こそが我々を清めてくれると
南北戦争で傷ついた人を見舞い励ましながら・・・・彼はそんな言葉を残した
ジョージオーウェルや開高健のように僕の人生に決定打を与えた人だ

『君が教訓を学んだ相手は君を賞賛し、
親切をほどこし、味方になってくれた人々だけだったのか?
君を排斥し、論争した人々からも大切な教訓を学ばなかったのか?』

           「けもの」

     私は生まれ変わって動物達と暮らせたらと思う
     彼らはとても穏やにそして自ら満ち足りている。

     私は立ったままでいつまでも彼等をながめる
     彼等はあくせくしていない
     けっして自分の境遇を恨んだりしない。

     夜眠れず目覚めていることもないし
     自分の罪深さに涙を流すこともない。

     私を難しい議論でうんざりさせることもない。

     誰も不満を口にしない。
     モノへの尽きない欲望で自分を見失うこともない。

     ひとりひとりが対等であるし
     はるか昔の祖先にひれ伏すなんて事もしない。

     彼等は自分を飾らず、
     この地球で不満を感じることもない。


© Rakuten Group, Inc.