原民喜詩碑遠き日の石に刻み砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻 この詩は広島県中区大手町一丁目10・原爆ドーム緑地帯に石碑として建立してあります 原民喜は幟町の生家で被爆、その前年には最愛の妻を失っています。原爆はこの孤独な詩人の心に大きな絶望感をあたえ、1951年東京で鉄道に身を投げて、46才の命を絶ちました。民喜はくりかえし訴えています。「自分のために生きるな、死んだ人達の嘆きのためだけに生きよ」と。妻を亡くし、原爆に傷つき、更に被爆者として同じ日本人から差別された彼の叫びを聞くような気がします 「美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。深い空の雲のきれ目から湧いて出てこちらに飛込んでゆく。僕はもう何年間眠らなかったのかしら。僕の眼は突張って僕の唇は乾いてゐる。息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は、ここもたしかに宇宙のなかなのだらうか。かすかに僕のなかには宇宙に存在するものなら大概ありさうな気がしてくる。だから僕が何年間も眠らないでゐることも宇宙に存在するかすかな出来事のやうな気がする。僕は人間といふものをどのやうに考へてゐるのか、そんなことをあんまり考へてゐるうちに僕はたうとう眠れなくなったやうだ。僕の眼は突張って僕の唇は乾いてゐる、息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は……。」 ──「鎮魂歌」(『原民喜全集』第二巻、芳賀書店)より 彼の代表作「夏の花」は、確か高校の教科書に載ってた 開高健が彼は離人症だったと書いていた 彼は繊細すぎるのだ 繊細すぎる心が原爆と言う狂気の兵器に焼き尽くされ自死する 広島の人とも話した事があり 「語り部」と言う人々がいます 原爆体験を語り続ける人々が 不思議なんだけど辛かった時代に彼の文章は心に沁みた よくこれだけ辛い状況で生きたよな 「妻と別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だったやうな気がします。」 また、1949年には次のように書いています。 「私は書きたいものだけ書き上げたら早くあの世に行きたい。と、こんなことを友人に話したところ、……」 妻亡き後の民喜は、一年間だけ生きて「美しい一冊の詩集」を書きたいと思っていたようです。 ところがその一年を前に、原子爆弾に遭遇します。 「このことを書きのこさねばならない」という思いのもと、 「夏の花」などの作品が書かれました。 そして同時に、「妻宛てに手記を書き続け」たのです。 ただでさえ窮乏に苦しむ人々が多かった敗戦直後にあって、 生活力が乏しかった民喜は人の世話にならざるをえない状態でした。 住む所に困ったり、食べる物がなかったり、 もちろん被爆の後遺症も民喜を悩まします。 しかし、そんな状態にあっても作品を書き続けました。 そして、書きたいものをすべて書き終えたとき、 「さりげなく」この世を去っていったのです。 「語り部」の人たちも戦争を語ることで生を見出した この人たちのあゆみも壮絶だ是非教科書に載せて欲しい 一度是非8月の広島を見てみたい 8月6日に灯籠流しをするのだ・・・慰霊のために 何回も誘われている・・・・一度行ってみたい ジャンル別一覧
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