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西暦677年の天武天皇の勅令で、奈良の明日香村の南渊山と細川山で、草木を切ることを禁止。
806年には、山城国大井山(現在の嵐山付近)の禁伐令でしょう。これは、桂川に土砂が流れ込み、洪水がたびたび起こったためで、川の河岸の木を切ることを禁止。 そして、時は元禄、平和になり人口が増え、開墾が進み、森から農地に次々と転換された後、洪水などの災害を多発する。 度重なる江戸の火事も大量の木材を消費する。 寛文6年(1666)2月、幕府は「諸国山川の掟」の令を出して、木の根の掘取りや焼畑を禁止し、木が生育していない山には植林を命じるなど、山地の取り締まりを強化した。貞享元年(1684)には、再度「山川の掟」が発令された。 地方の人口増加に伴う開墾や都市化が大量の木材を消費し山が枯れ川が暴れるということだ。 「国を治めるには水を治めよ、水を治めるにはまず山を治めよ」 「木を切れば、首が飛び、枝を切れば手を、葉を切れば指で、草を切れば髪をきる」 なんて言葉が残る。 日本の歴史を治水と水田と山から見て行くと戦国の武将は山に城を構え治水をすることで新田開発をしていく。戦国の武将の名を冠した堤防などが全国各地に点在する。 このことは、狭い国土の中で食料を生産する連作が可能な水田の歴史でもある。 江戸時代になされた植林によってトトロの森は、武蔵野の森は作り上げられ、太陽エネルギーによる世界に例を見ない江戸という循環都市が築かれる。 利根川水系を大工事で灌漑用水化し新田開発を進め、糞尿を集め、肥料として土に返す、木を植えて、山を守る。 これらの取り組みをした世界史上初の国家でもあった江戸幕府。 これらもやはり人間の強欲によって何度も似たような事が繰り返された結果だ。 今あるようなコンクリートの堤防は大正から昭和初期頃より作り始められた。 そして暴れる川と我々の暮らしは切り離され、取水や発電の為のダム建設が始まる。 鎖国が解かれることによって色々な意味での自給自足経済や環境保護体制は崩壊する。 交通の手段が舟運から鉄道中心へと変化したこともあって、次々と日本の川は、死んでいく。 このことは、漁業の衰退にも当てはまる、昔の漁師は、山を見て魚を獲ったという。 豊かな山が肥沃な養分を川が運ぶ事で田畑を養い、海を養っていた。 このことを経験上、日本人は知っていた。 これを森の思想と呼ぶ人も居る。 大量の物資を輸入する事で暮らす我々の暮らしは、そんなに長くは続かない。 自然の恵みによって活かされてる我々が何かを忘れ利便や効率を追求すればするほどに人心は荒廃し田畑は荒れる。 このことは、幾たびも歴史上繰り返された。 しかし、その度にこの国を救ったのも森の思想なのかもしれない。 僕が子供の頃の隅田川は、コンクリートで囲われ「泳いだら死ぬ」と言われ、もっと近所の荒川には、「頭がふたつのハゼ」だとかが取れたなどということがあった。 外で遊べば「光化学スモッグ」だ。 江戸時代には、せいぜい3千万ほどだった人口が一億を軽く超え、富国強兵、殖産興業、生めよ殖やせよでここまで来た。 そんな僕には、たまに家族で遊びに行く長野県の千曲川などは、感動モノだった。 しかし、農家のおばちゃんと話せば、昔は、タニシもいたしドジョウもいた、今はいない。 何で?と子供の頃の僕が聞けば、「農薬だわ。」 まあそんなこんなの現代なのだけれど、海岸の松林、川沿いの林も洪水から身を守る知恵の成果でもありご先祖様の苦労の森の思想の遺産なのだろうなあ・・・・などと思う朝なのであります。 だから、現代に暮らす我々もコンクリートの治水や原子力発電などという愚行をやめて、自然を見据え、子孫を思い、どんな生き物にとっても優しい文明を築いて行きたい者であります。 海岸線のコンクリートを剥がし山を豊かにして海を蘇らせ、ダムを解体し、治水を根本的に改め地域に根ざした植林や農業や漁業、原発を減らし、太陽光発電や太陽電池などを広め、そんなことを本気でやる政治家や企業家や官僚が国民この国の未来を決めます。 そして、これらの技術を輸出すればこの国の平和も守られるとおもうのですが如何でしょうか? 治水と稲作の集約化という文化がこの国が長らく保った真因でしょうし。 (-∧-)合掌・・・ 神棲む森の思想 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年12月06日 11時44分58秒
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