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「問題を持つ私たちの多くにとって、困難なことは、私たちが各々の問題をそれ自身の平面上で解決しようとすることの中にあります。私たちは問題を統合的に、全体として、解決しようとしません。そうではなく、それを特定の観点から解決しようとするのです。あるいは私たちは、生である全体の過程から問題を区別しようあるいは分離しようとします。
私たちが経済的な問題を持つなら、私たちは、生の全体の過程を無視して、その平面上だけでそれを解決しようとします。そして各々の問題は、そのように取り組まれるとき、明らかに解決されることができないに違いありません。 なぜなら、私たちの生は防水区画の中にはないからです。私たちの生は生理学的にも心理的にも全体の過程です。そして私たちが生理学的な問題を理解することなしに、心理的な問題を解決しようとするとき、間違った強調を与え、したがって、問題をさらに複雑化するのです。私たちがなすべきことは、私にはそう思われるのですが、それを分離した問題として取り扱うのではなく、全体の一部として、各々の問題を取り上げることなのです。」 「私たちはたくさんの理論と思索を創作し、さまざまな団体に参加し、教師や師に従い、儀式を執り行い、小さな徒党の中に集まり、他の人々より上位だと感じることができますが―しかし、このすべてはどこにも導きません。それは単に無思慮な人々の未熟な行動に過ぎません」 「本当に重要なことはただ一つー生の中に、善性と愛と英知を伴った行為があるということです。善性は個人のものでしょうか、それとも集団のものでしょうか。英知はあなたのものや、私のものや他の誰かのものでしょうか。もしそれがあなたのものや私のものであれば、それは英知でも愛でも善性でもありません。 もし善性がある特定の人の好みや結論によって決められた、個人または集団のものであれば、それはもはや善性ではありません。善性は個人の裏庭にも集団の広場にもありません。善性はその両方から自由なときにだけ花開きます。この善性、愛、英知があるとき、行為は個人や集団とは無関係なのです。 善性を持たないため、私たちは世界を個人と集団とに分け、さらにその集団を宗教や国籍や階級によって数え切れないほどのグループに分けています。これらの分離を作り出しておきながら、私たちは新しいグループを結成してーそれもまたほかのグループから分離したものにすぎません。ーそれに橋をかけようとします。 すべての大宗教は人間に同胞愛をもたらすために存在しているように思われていますが、実際にはその妨げになっているのです。私たちが耐えず力を注いでいるのはすでに腐敗したものの改善にすぎません。私たちは腐敗そのものを根本的に絶滅しようとするのではなく、ただそれを並べ変えているだけなのです。」 「私自身を理解することが不可欠です。なぜなら、問題が何であれ、それらは私によって投影されるからです。私が世界なのです。私は世界から独立していません。そして世界の問題は私自身の問題なのです。私の周りの問題を理解するためには、それは私自身の投影なのですが、何もかもことごとくへの関係の中で私自身を理解しなければなりません。しかし、私が比較すること、非難すること、正当化することによって始めるなら、理解はありえません。」 「それで、私たちは、まず、自分自身を理解することの重要さ、必要性を見なければなりません。というのは、自分自身を理解することなしには、ひとつも問題は解決されることができないからです。そして戦争、敵対、羨望、争いは続くでしょう。真実を本当に理解したい人は静かである心を持たなければなりません。そしてその静かさは彼自身の理解を通じてのみ生じることができます。」クリシュナムルティ 世界の闇や人の心の闇などを覗いているとクリシュナムルティの言葉を読みたくなる。 クリシュナムルティの言葉を読んでると様々な賢者や聖人もこんな風に説いていたんだろうなあ。 などと思う。 もう少しクリシュナムルティの言葉を 「さて、問題は解決と異なっているでしょうか? それとも、解決は、問題から離れてあるのではなく、問題それ自身を理解することの中にあるのでしょうか? 明らかに、問題から逃避したい私たちのそれらの人々は無数のやり方を持っていますー飲酒、娯楽、宗教的、心理的な思い違いなど。私たちの問題からの逃避を見出し、それらに私たちの目を閉じることは比較的に易しい。それを私たちはするのです。なぜなら、私たちはそれらにどう取り組むか知らないからです。私たちは、私たちの信念、私たちの偏見に従って、常に出来合いの答えを持ちます。教師、心理学者、だれか他の人が私たちに教えてくれたことに従って。そして、その出来合いの答えで、私たちは問題を解決しよう、接近しようとするのです。確かに、それは問題を解決しません。それは逃避のもうひとつの形であるに過ぎません。」 そして 「ほとんどの人は知る知らないは別として、すでに生きながら自殺を犯しつつあるのではないだろうか?」 というクリシュナムルティの問いは、僕がずっと感じることでもある。 慢性的な緩慢な自殺行為である個人や文明。 そしてこれらを解決しようとする様々な試み。 そういえば「あなたは、生きてるようだが死んでいる。」とイエスキリストは言ったのだった。 などと思うのでありました。 (-∧-)合掌・・・ クリシュナムルティの日記 クリシュナムルティの瞑想録 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年02月21日 09時17分52秒
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