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関東防空大演習を嗤(わら)ふ
防空演習は、曾(かつ)て大阪に於(おいて)ても、行われたことがあるけれども、一昨9日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘(わた)る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固(もと)よりのこと、国民は挙げて、若(も)しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大(じんだい)にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。 将来若し敵機を、帝都(ていと)の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪(そうしつ)の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀(よぎ)なくされないだろうか。何ぜなら、此時(このとき)に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能(あた)わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏(も)らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土(しょうど)たらしめるだろうからである。如何(いか)に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生(へいぜい)如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽(ろうばい)目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の一大修羅場(しゅらば)を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈(てい)するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある。 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸(いっ)せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略(おおよそ)予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦(ぼうぎょ)方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。 こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡(しばしば)それが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽(こっけい)であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖(いえど)も、要するにそれは一のパッペット(人形)・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽(ろうばい)せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空(しょうくう)速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう。 特に、曾(かつ)ても私たちが、本紙「夢の国」欄に於て紹介したるが如く、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、また如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも、市民の、市街の消灯は、完全に一の滑稽である。要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。 1933(昭和8)年8月11日付の信濃毎日新聞社説 この社説が陸軍の逆鱗に触れ桐生は新聞社を追われた。 桐生悠々(きりゅうゆうゆう)が嗤ったのは以下のような考えだ。 「國民防空は根本に於て、強い國家主義に發足せねばならぬ。即ち國民全靆が國家と運命を共にすると云ふ殉國精神に出發してゐるのでなければならぬ」 「國民は一人も残らず、……棄身となつて我が尊い國家を護り通すと云ふ決死の覺悟即ち防空精神を發揮することが何より大切であ(る)」 石井作次郎『実際的防空指導』1942年 この考えに異を唱えたものは・・・・次々と獄に繋がれた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%83%BB%E6%88%A6%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%AB%96%E5%BC%BE%E5%9C%A7_(%E5%B9%B4%E8%A1%A8) 1939年と言えば・・・ 「産めよ殖やせよ国のため」 「結婚十訓」の中の一句。他に「なるべく早く結婚しましょう」「式は質素に届けはすぐに」というのもあった。 「日の丸弁当」 ご飯の中央に梅干し一つを置いた質素な弁当。戦地の兵隊さんの苦労をしのび感謝の意を表そうと強制された。 などという言葉が流行。 「父よあなたは強かった」父よ あなたは強かった 兜も焦がす 炎熱を 「兵隊さんよありがとう」肩を並べて 兄さんと きょうも学校へ ゆけるのは 兵隊さんのおかげです などという歌が流行する。 こういった狂気は竹槍事件にまで行き着く。 真珠湾攻撃当時の首相であった東條英機は、戦争遂行のために「東條幕府」と揶揄されるほどの独裁的政治を行ったことで様々な問題や軋轢を生んでいた。また、軍務や政務に私情を持ち込む傾向があり、反対意見に耳を塞いだのみならず、個人的に嫌いな人物や敵対者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをした。 東條が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。そうした中、1944年2月23日付の毎日新聞朝刊に「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」の見出しで新名丈夫記者(当時37歳)の執筆による記事が掲載された。 新名の記事は「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」という趣旨で、陸軍の本土決戦構想に反対する海軍の指導によって書かれたものであった。この記事に対し、東條は自分に批判的な記事を書いた新名を二等兵として召集し、激戦地となることが予想される硫黄島へ送ろうとした。これに対し、新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であったことから、海軍が召集に抗議した。そのため、新名は海軍の庇護により連隊内で特別待遇を受けて3ヵ月で召集解除になった。その後、東條の意志で陸軍が再召集しようとしたが、海軍が先に国民徴用令によって庇護下に置き、新名を救った。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%A7%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6 竹槍で飛行機を落とそうとした狂気が原爆投下という狂気でとどめをさされるまでの顛末。 日本の知性が死んでいく過程の年表は以下。 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/taisennkannkeinennpyou.htm 軍部の弾圧と狂気の連鎖は国内より早く中国大陸で平頂山事件が1932年9月16日に起きている。 撫順守備隊は、平頂山集落がゲリラと通じていたとの判断の下に集落を包囲、掃討を行なった。掃討の方法は、平頂山部落の、その時部落にいたほぼ全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を集めて機関銃を掃射し、それでも死ななかったものを銃剣で刺し、殺害した死体には重油をかけて焼却するというものであったと伝えられている。その後、崖をダイナマイトで爆破して死体を土石の下に埋めたが、これは事件を隠蔽するためと推定する見方もある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 桐生悠々の指摘通り日本の都市は、空爆により次々と廃墟となり軍部の指導虚しく砕け散る。 1941(昭和16)年8月、「小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」との言葉を残し鬼籍に入る。 「蟋蟀(こおろぎ)は 鳴きつづけたり 嵐の夜」との墓碑銘が桐生悠々の多磨霊園の墓石には刻まれている。 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kiryuuyuuyuu.htm こういった狂気の元凶の主役は、強欲非情な日本企業、軍部という官僚集団とマスコミを中心に見てみぬふりをする従順な国民との間で行われた。 知性や理性が死んだ結果、未曾有の結末を日本は迎えることとなり。 アメリカ占領軍による新たな言論弾圧がはじまる。 1945年9月10日:GHQが検閲を始める。 1945年9月19日:GHQ、プレスコードを指令。 1945年9月27日:GHQ、日本政府による検閲を停止させ、新聞等を自らの支配下に置く。 そして今。 日本人の知性は、瀕死状態かと思う夜。 (-∧-)合掌・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009年12月15日 02時22分13秒
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