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チェロキーインディアンの教えには、何万年もの間こう言い続けられてきたものがあります。
母なる大地から、いつも恵みをもらうばかりではいけない。 大地にも恩返しとして感謝の気持ちを捧げなくてはならないのだ。私たちはただやみくもに奪ってはいけない。 必要なものだけを取ればいい。 植物からの恵みを得るときには、まず最初の1本に祈りを捧げる。 聖なる煙草の葉を備え、新しい息吹をいただくことに感謝する。 必要な量以上はけっして取ることはない。恵みをけっして無駄にしないために。 これが自然の原則であり、大自然の秩序なのだ。 狩りの前にも私は祈りを欠かしたことはありません。 今までに多くのバッファローを狩ってきましたが、一度もその矢をはずしたことはありません。 私の射った矢は必ず背中から心臓を貫き、一撃のうちにバッファローは大地に倒れていくのです。 私は矢を射る前には必ず「私の兄弟たちのために、あなたの命を奪うことをお許しください。そのかわり、私にもいつか死が訪れ、私の身体は土に還り自然の一部に戻って、新しい命となってあなたたちの命ともつながっていくのです。今回あなたの命を大切に使わせていただくことに感謝します」と念じながら射るからです。 私たちチェロキーインディアンはバッファローを神と考え、崇めています。 大事な生活の糧となるバッファローのすべてを、けっして無駄にはしません。大切に使い果たすことで感謝の念をあらわしているのです。 私たち地球上の生き物のために、創造主は恵みの雨を与え、浄化の雪を降らせてくれます。嵐や雷や竜巻でさえ、それらは何か意味があって起こるのです。 もしも私たちが雨の精霊に対して敬意を払わなくなれば、雨が降らない日は何日も続き、人々は水不足で困るか干ばつに見舞われることでしょう。 感謝を忘れたとき、大雨が降り続き、洪水が起こるかもしれません。 「グレートスピリッツである森羅万象のすべてがつながりあい、支えあっている」という究極の真理は、「すべての生命は大きなひとつの輪の中にあってつながっているというチェロキーの輪の思想」に基づいています。 輪には、始まりもなく終わりもありません。 すべての生命は輪のようにつながりあって、支えあって生きているのです。人間も人間だけでは生きていくことができないことを教えています。 チェロキーインディアンの精神は輪の中にあります。 すべては聖なる輪の中にあるのです。 私たちのまわりの自然をみてもそれがよくわかるでしょう。 母なる地球も、そして月も太陽も星もすべて輪からできています。私たちの体をかたちづくっている細胞もまた、基本は球であり、すなわち輪から成り立っているのです。 木の葉は地上に落ちて土の栄養分となり、土は多くのさまざまな生命を養います。木にできたたくさんの木の実を小鳥やリスなどの小さな動物がついばみます。狼やコヨーテなどがそのリスを食べても、けっして必要以上の狩りはしません。 やがて彼らも死を迎え、土に戻っていく日がくるのを知っているからでしょう。 こうして生命は大きなひとつの輪の中に生き続けます。 生き物はみんな輪の中にいることを知っているのです。 「プレアデスの智恵 チェロキーインディアンからのメッセージ」薗田 綾・著 最初の教え 平原で輪になって、みんなで座っているとしよう。 輪のまんなかに、色を塗った太鼓かタカの羽根を置いてみる。 すると、われわれはその太鼓や羽根を、一人一人異なった角度から眺めることになる。 われわれ一人一人が座っている場所が、みな違うからだ。 われわれの目に映る太鼓や羽根がこんなふうにみんな違っているのは、もちろん座る位置のせいばかりではない。 色盲の人もいれば、視力の弱い人もいるだろう。 それぞれの体の特徴が、見方を大きく左右するわけだ。 自分の見方や、兄弟姉妹たちの見方をはっきりさせようとする時、そこに何層にも重なった異なる見方があることに気づくだろう。 われわれの見方は、人生のさまざまな出来事によって多くの影響を受けるものなのだ。 私にとって恐ろしいことが、他の人を喜ばせ、また他の誰かをまったく退屈にさせてしまうこともある。 われわれの想像力は、見ているあらゆるものから常に刺激を受けている。 だが、どんな刺激を受けるかは、人それぞれ異なっている。 われわれは、みな受けとめ方が違うのだ。 愛、憎しみ、恐れ、混乱、幸福、妬み、われわれが経験するすべての感情が、それぞれの受けとめ方を変えてゆく。 さっきの輪のまんなかに、今度は別のものを置いてみよう。 目に見えるものではなく、考えや感情、哲学といった抽象的なものだ。 こうすると、われわれの受けとめ方は、もっと複雑なものになる。 輪に加わる人がふえればふえるほど、受けとめ方もその数を増すだろう。 それが見えるものであろうとなかろうと、われわれ人びとが一つの輪になって座れば、そのものは千の顔を持つものになる。 このことを理解することが、聖なる輪の最初の教訓であり、サン・ダンスの教えのもっとも重要な部分なのだ。 聖なる輪の教え (セブン・アローズ) ヘェメヨースツ ストーム著 阿部 珠理 翻訳 何万年かの間我々はこうやって生きてきたのだろうなと古の教えを読むと思う。 人類最初の自然破壊である農業。 古事記に見られるようにアマテラスとスサノオの兄弟喧嘩は農耕と狩猟という生産様式の変遷と争いを指し示していると思う。 農業は、自然を管理し奪うという形になる。 漢民族と騎馬民族の果てしない闘争の歴史も似たようなものだと思う。 農耕派の勝利は、一神教を生み出し産業革命へと向かい。 世界中に散在していた先住民の大殺戮へと向かった。 わが国で言うとアイヌ民族への大殺戮と似たような経過を経て・・・・・ 現代の中国は、ウイグルやチベットで相似形の殺戮を続ける。 文明への同化、搾取、略奪、奴隷制・・・ 近代は血に彩られその延長線上の世界に我々は住む。 アイヌ民族には土地の所有という概念が無かったという。 おそらく農耕以前の我々はそうだったのだろう・・・・ 世界中に広がる環状列石群を眺めれば・・・・輪の思想なのだ。 アメリカンネイティブの1人は、現代の病の原因をユダヤ教の排他性や選民思想に求める。 ユダヤ教から派生したキリスト教徒に嬲り殺された民族の末裔としては、当然の帰結とも思う。 土地を四角く切り分け四角い土地を所有し考え方まで四角になった。という。 私の家、私の妻、私の車・・・そこには創造主との一体感などないのだ。という。 まあそうだろうなあ・・・と思いつつそんなこんなの文明に毒されたわが身を眺めつつ 輪と四角の壮絶なる血塗られた歴史に呆然とするのであります。 古の教えは、わが国で言えば古神道とアイヌ神話の中にあり、神道も明治以降は死んだようなのであります。 そんなこんなの聖なる教えに触れることで少しでも身を清めつつ生きて行きたいものであります。 と自問自答しております。 今この星で繰り広げられる速度を上げ続ける環境破壊と人間精神の破壊の同時進行を眺めつつ覆水盆に帰らず・・・と思いつつも・・・・ 自身に出来得ることは、母なる大地に懺悔と感謝の祈りを捧げることしかないのかもしれないなあと呆けたオツムで考えるんであります。 (-∧-)合掌・・・地球さんごめんなさい。地球さんありがとう。 【中古】【古本】セブンアローズ I 聖なる輪の教え/へエヨースツ・ストーム お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010年07月29日 20時44分13秒
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