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「死と愛と孤独」原民喜
原子爆弾の惨劇のなかに生き残つた私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく弾き出された。この眼で視た生々しい光景こそは死んでも描きとめておきたかつた。「夏の花」「廃墟から」など一連の作品で私はあの稀有の体験を記録した。 たしかに私は死の叫喚と混乱のなかから、新しい人間への祈願に燃えた。薄弱なこの私が物凄い饉餓と窮乏に堪へ得たのも、一つにはこのためであつただらう。だが、戦後の狂瀾怒濤は轟々とこの身に打寄せ、今にも私を粉砕しようとする。「火の踵」「災厄の日」などで私はこのことを扱つた。 まさに私にとつて、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩――さういつたものが、今は烈しく私のなかで疼く。それらによく耐へ、それらを描いてゆくことが私にできるであらうか。 嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。その後私は妻と死別れると、やがて広島の惨劇に遭つた。うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支へてゐてくれたのは、あの妻の記憶であつたかもしれない。そのことも私は「忘れがたみ」として一冊は書き残したい。 そして私の文学が今後どのやうに変貌してゆくにしろ、私の自我像に題する言葉は、 死と愛と孤独 恐らくこの三つの言葉になるだらう。……十数年も着古した薄いオーバーのポケツトに両手を突込んで、九段の濠に添ふ夕暮の路を私はひとりとぼとぼ歩いてゐる。 「屍の街」原民喜 私はあのとき広島の川原で、いろんな怪物を視た。男であるのか、女であるのか、ほとんど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに痛々しい肢体を露出させ、虫の息で横たわっている人間たち……。だが、そうした変装者のなかに、一人の女流作家がいて、あの地獄変を体験していたとは、まだあの時は知らなかった。 「なんてひどい顔ね。四谷怪談のお岩みたい。いつの間にこんなになったのかしら」と大田洋子氏は屍の街を離れ、田舎の仮りの宿に着いたとき鏡で自分の顔を見ながら驚いている。それから、無疵だったものがつぎつぎに死んでゆく、あの原子爆弾症の脅威を背後に感じながら「書いておくことの責任を果してから死にたい」と筆をとりだす。こうした必死の姿勢で書かれたのがこの「屍の街」である。銅色に焦げた皮膚に白い薬や、油や、それから焼栗をならべたような火ぶくれがつぶれて、癩病のような恰好になっていた。これは、この著者が目撃した、惨劇の一断片であるが、こうした無数の衝撃のために、心の傷あとはうずきつづけるのだ。著者は女性にむかってこう訴えている。 生きなくてはならない一人の女の右手が、永久にうしなわれて行くのでしたら、戦争そのものへの抗議と憎悪が日本中の女の胸に燃え立つはずです。 「ヒロシマの声」原民喜 ペン・クラブ広島の会にて ペン・クラブの一行に加わって私はこんど三年振りに広島を訪れた。街は既に五年前の廃墟の姿とは著しく変っていて、見たところ惨劇の跡を直かに生々しく伝えるものは、あまりなかった。かつての凄惨な印象は一応とりかたづけられて、今はひたすら平和都市としての更生の途上にあるもののようだ。ガスタンクに残る光線の跡も、大阪銀行の石に偲ばれる人影も、産業奨励館の残骸も、それらは既に名所旧跡の趣を呈し、嘗てここが無数の屍で覆われ、死の叫びにつつまれていた土地のようでもない。そういえば、八月六日のあれは、あまりに急速で巨大な破壊だったので、人間らしい怨恨の宿る暇さえなかったのだろうか。陰々として地下に潜む亡霊といったようなものは、現在の広島の土地からは感じられない。だがそれでいて、何か無気味で割りきれない漠としたものが、この土地に住む者にも、ここへ訪ねて来る人たちの上にも、ひとしく胸に迫ってきて離れないのだ。 ペン・クラブの滞在中は恰度、天候も桜のあとの麗かな快晴に恵まれ、中国山脈と瀬戸内海を背景にした、この街はまことに和やかな表情をしていた。だが、それは悲劇のあとの、ひたすら美しいものを、和やかなものを求めようとする祈りのこもっている表情のようでもあった。 中央公民館で行われた「世界平和と文化大講演会」では、聴衆は扉の外にまで溢れ、みんなが熱心に何かを求めている犇めきが感じられた。その中には、恐らく原爆体験者ともおもえる相当年輩の男女の顔もみかけられた。 私がもっとも心打たれたのは、講演会の後で行われた原爆体験者たちとの座談会であった。あの当時、一週間あまりというものは、まるで睡眠もとれず、負傷者の手あてに無我夢中だったという日赤の看護婦さんの声は、回想談でありながら、熱涙にふるえていた。 人類は悪魔の意思にゆだねられその指さきによって破滅するのだろうか。いま地球の一角ヒロシマで盛りあがってゆく平和への意思が、人類全体の意思を揺さぶり昂めることはできないのだろうか。 あのような地獄以上の体験を、たとえ自分はもう再び被らないとしても、地球のいかなる部分いかなる人の頭上にも、もはや再び被らせたくない、それこそは身をけずられるばかりの苦痛なのだ。こういう叫びは座談会に臨んだ体験者たちのひとしく口にするところであった。 http://www.sumomo.sakura.ne.jp/~aozora/tamiki/tamiki_index.html 原民喜の掌編を青空文庫で読む。 当事者であることと そうでないことの 大きな隔たり それは、今の僕が常々思うことでもある。 自身の病態がなかなか伝わらない。 どれだけ優秀な医師であっても 医師と患者の間には、大きな隔たりがある。 死と愛と孤独 ある意味全ての人間が抱えることでもある。 人間の繋がりと隔たり そんなことを考えつつ 広島、長崎に次いで福島の地名は、人類の負の歴史に刻まれるだろう。 現代における癌の発生率の増加やその他諸々の障害や病気の多様化 これらの問題と放射能汚染の因果関係は、どうなのだろう? とずっと考えている。 広島長崎以後原水爆の実験を幾たびも繰り返す国々。 その後の地上での実験の禁止。 地下での核実験は、これからも続くだろう。 地球の浄化作用を遥かに超えた営みをする我々人間という生物。 劣化ウラン弾を始とする新たな核兵器の登場と殺戮の数々。 原民喜が体験した地獄以上の惨劇は収まるどころかこの星で広がる一方かと思う。 イラクやアフガンの地獄で泣き叫ぶ人々の声は、届かずに・・・・ そんなことを考える朝。 (-∧-)合掌・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2011年06月12日 05時40分20秒
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