臓器売買・不妊治療技術の進歩
今日、ある記事を読んでいて衝撃で吐きそうになった。Organ Trade(臓器売買)に関する報道だ。噂話では無く事実だ。ニカラグアの農村で8歳の少年が登校途中に行方不明になった。村人達の捜査のかいもなく3日が過ぎた後少年は村の近くの排水溝で発見された。生きていた。が、両目を「盗まれていた」。弱々しい泣き声を聴いた通行人に発見された時、少年は血を流しながら苦痛の中でうずくまっていた。その後の経過は記事には詳しく書かれていなかったのだがこの衝撃から心をずたずたに裂かれた少年に母親もどうしてよいかわからず結局、少年は盲人の為の施設で暮らす事になった。その施設の少年達の「半数以上」が生まれつき或いは病気で失明したのではなかった。この少年と同様に誘拐され文字通り目をえぐり取られたのだ。「高価な商品である角膜」を盗まれたのだ。昨年末、こんな報道も読んだ。フランスの難民キャンプで医師が気付いた。アフガニスタン等からキャンプにたどりつく難民達の中に片目を失った子供達の数が増えている。無事、目的地にたどりつくための代償として角膜や臓器を提供させられているのではないかという....。インドでは貧困層であえぐ人々が腎臓、角膜だけでなく下肢(骨や皮を使用する)までも売っている。もちろん、インドでは、臓器売買は禁止されているが法律に抜け穴があった。臓器の提供は親戚間だけではなく「非常に親密な友人間」でも法律で許可されている為全く無関係な臓器の提供者と買い取り主が裁判で「長年の友人」と宣誓すれば「売買」は成立する。英国でも、昨年末、こんなニュースが騒がれた。障害を持つ幼い子供を抱えた父親が専門の私立校で子供を教育させるために必要な(公費での補助を拒否された)高額な学費を捻出しようとネット・オークションに自分の臓器を出したのだ。オークションサイト側から取り下げられるまでの間に米国で高値がついた。子供という弱者から「正気で」目をえぐり取る様な心を作った社会。「持つ者」が生き残り「持たざる者」は生き残る為に自らを傷付けざるを得ない社会。悲劇から残酷な金を絞り取る病んだ心を生んだ社会。そんな社会への暗澹たる哀痛の中「医学の進歩」という言葉が浮かんだ。私は医学の進歩を肯定的に捉えている。医学の進歩が無ければ、次男の顎の畸形も治せなかった。手術を受けられず、口を開けれないまま、成人できるのか、たとえ成人しても、どんな苦痛(肉体的・精神的)があるのかどの程度健康なのか....全くわからない。次男も、そして私達家族も幸運だった。私達の生まれた国、そして、生きている時代が幸運をもたらした。臓器の移植を可能にしたのは医学の進歩だ。臓器ではないが次男だって「移植」をしている。自分の肋骨と耳の軟骨を顎に与えたのだ。それを可能にしたのは臓器の移植を可能にした医学の一歩手前の技術かもしれない。もちろん、他人の臓器を移植する事と自分の体の骨や皮を移植する事との間に存在する莫大な差の克服は当時の医学の飛躍的進歩であったに違いない。そして、その医学の進歩によって多くの命が救われている。同時に、臓器移植が可能でなければ臓器が売り買いの対象となる事もなかった。少年の目が金銭の為に奪われる事もなかった。医学の進歩が直接の原因なのではない。とどのつまりは人類の心の進歩が医学の進歩に付いて行けなかったのだ。先週、クローン妊娠成功の報道も読んだ。不妊治療技術の最先端との事だ。生命がともったからには無事に生まれてほしいと祈っている。ただ、近年の不妊治療技術のめざましい進歩にはどうしても戦慄感を覚えてしまう。私は自分の子供達を愛している。疑問の余地の無い本能的な愛情だ。子供に恵まれない人が子供を欲しがる感情も疑問の余地の無い本能的な感情なのではないかと思う。だから子供を望む人達に希望を与える医学の進歩は全面的に肯定している。だが、その進歩に、どこまで人類の心が追いつけるのか..仮に、この不妊治療技術の悪用は一切考えず善意を持つ人達の間で純粋な善意のもとに行われた人為的妊娠・出産のみを考えることにする。例えば非配偶者間人工授精に関する規制は肝心の生まれて来る子供達の事まで考えているだろうか?提供された精子や卵子により生まれた子供達がその精子や卵子の提供者である「親」を知る権利を持たない状況のもとで子供達の心が、どれだけ重視されていると言えるんだろうか?医学の進歩に人類の心の進歩が追いつく事は無いかもしれないという深い絶望感と人類の心そのものに対する漠然とした不安・懐疑心...そして、今私の生きる暴力による悲劇の絶えない社会のどこにその不安を解消させてくれる様な要素があるんだろう?医学の進歩という灯かりが人類の心の中に広がる深い闇を照らし出してしまった。パンドラの箱と同じかもしれない。でも、希望は、あるんだろうか?そして、灯かりを持つ者は、一体、どうしたらいいのか?