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かりん御殿

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April 12, 2008
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テーマ:たわごと(26776)
カテゴリ:旧(中年の主張)
時々(最近は、ごく、たまに)読む
育児系の相談室的な掲示板で、
(今回は、友人の指摘で、わざわざ
読みに行って)の印象なのだが...

「高学歴」=頭が良い

と、混同している人は
結構、少なくないんじゃないだろうか?

育児掲示板には、時々
自称「高学歴」な母
(時には「高学歴」な夫の妻)が登場して
我が子(それも幼児)の
「学力」や
「早期教育」について案ずる相談スレッドを立て
それが、また、様々な反応を呼び、スレッドが
長くなるということがある。


「高学歴」と、わざわざ書く相談者の場合
大抵は
「頭は、そう良くない高学歴」だという
印象を私は、受けている。


高学歴には
頭が良くなくても、なれる。

努力
根気
向上心
適宜な方向性と学習方法
等々が
そろっていれば
頭は、さほど良くなくても
高学歴を得ることは可能だ。

しかし
「高学歴」なレベルまで行くと
そこには、
必ず
「天分的に頭が良い人」
(天才・秀才のレベル)が、いる。

余談だが、日本では
「秀才」は、
「努力をして頭が良くなった人」的な
解釈で語られる時が少なくないが
私の「秀才」の定義は
努力とは無縁で、やはり
「天分的に頭の良い人」や
「天分的にある種の才能が突出している人」で
天才よりは、ちょっとレベルが下の人のことだ。
どちらにも、天分は不可欠で
凡才が努力しても到達できるレベルではない。
もちろん、凡才は努力する必要ないと
言うわけでもない。
努力というものは、見返り無しで
本人が、やりたいから、するものだと
私は、思うのだ。
私自身も凡人だが、
例えば、語学などで、せっせと努力するのは
聞いたり話したり読んだり書いたりが
好きだからに他ならない。
だから、好きではない事には
努力しないという言い訳ではないが(^^;)。


さて、話を元に戻すと
「高学歴」というのは
大学院以上、修士・博士レベルを
示すのだと思うが
ここまで学習を続ける人には
たとえ天分的な頭脳の良さが無くとも
学問・研究自体が好きなので
努力もすれば、その努力も厭わない
人たちが、かなりの数いるはずだ。

この人たちにとっては
「高学歴」は、単なる結果であって
わざわざ「高学歴」と
自己申告する事は無い。
むしろ、
「高学歴だから」という
言葉が出てくる時には
「高学歴すぎて仕事が見つからない」
「高学歴すぎて結婚できない」
等と、
「高学歴がアダとなる」
構文になりがちだ。

しかし、この人たちの中にさえも
ここまで努力してきたし
学問的にも職業的にも
ある程度の結果は出しているし
自分は、
天分ほどの頭脳の良さはなくとも
かなり頭が良いのではないかと
ちょっと誤解してしまう人も
いるのではないだろうか。

自分は「高学歴」なのに
子供の「学力」が、さえない
(はっきり言うと、自分よりも
低学歴の人の子供に負けている)などと
悩む人が
どの様な目的で高学歴を得たのか
多種多様な理由があるのだと思うが
このタイプの人たちが
誤解しているのではないかと
私が常々疑っていることがある。

それは
この人たちは
「努力すれば頭が良くなる」

誤解しているのではないか???
という疑問だ。

どんなに努力しても
頭は良くならない。
頭の良さは、天分で決まっている。
それは
どんなに努力しても
顔が良くならないのと同じだ。
顔の作りも、天分で決まっている。

最近は、美容整形が発達して
顔のほうは、かなり
後天的な「一種の努力」が
きくようになったが
頭は
コンピューターの
メモリーを増やしたり
プロセッサーの性能を良くする
のと同じ技術を
ヒトの頭脳に適用可能にでもならない限り
後天的な調節は不可能だ。
(これも、いつか可能になるように思うが)


運動や芸術や音楽の才能については
すんなり天分だと諦めている人が
幼児の教育に関しては
「天分」の存在を忘れてしまうのは
何故なのだろう?

天才は作るものではなく
生まれるものだ。

秀才も作るものではなく
生まれるものだ。


学校の成績や語学は
頭脳の良さとは関係が無い。

ほんの少しの天分というより
適正は必要だし
努力を厭わない要素や性質も
必要だが
最も重要なのは
努力だ。

ただ、天才や秀才は、
その努力をする事無く
凡才がたゆまない努力をして
やっとたどり着けるところに
ひとっ飛びで到達してしまうので
それを目の辺りにする凡才には
なかなか辛いところがある。

しかし、そこで、くじけてしまってはいけない。
世の中、絶対大多数は凡才なのだ。
だから、凡才でも、せっせと努力していれば
満足の行く、十分な、結果は出せるし
その努力の過程にも喜びを見いだせるだろう。
落ち着いた境地に達することもできるのだ。
そして、
その心穏やかな境地から
ごく少数の
天才や秀才の才能に
感嘆し、愛し、鑑賞し、感銘を受け
可能であれば、その才能を
応援したり擁護すれば良い。


一方
天分的に頭が良い人が
研究/学問とは無縁に生きている事も
少なくない。
これは、人類の発展のためには
残念なことではあるが
生育環境や本人の意思にもよるものなので
しかたが無い。
人類の発展に貢献した天才や秀才が
幸福な一生をおくれなかった事なども
よくある話なのだから...。


しかし、何故なんだろう
こんな事を当然だとわかっている人でも
幼児教育になると
幼児は皆天才だ、とか
幼児の天才性を活かせないのは
親の失敗だとか
(これは別の意味で、その可能性もあるが)
とんでもない誤解をしてしまうのは..?
これが
親バカということなんだろうか...?


親バカ...
(はいはい、ここにもいますよっ!)
こんなところで油売ってないで
他人事だとたかをくくらず
せっせと反省しなきゃなぁ...(^^;)

★★★★★
追記:
教育産業と美容産業は同じ理論で動いている。
教育産業に無闇にお金をかけて
効果が出なかった時、子供を責めるよりも
美容産業にお金をかけて
自分を責めたほうが良い様にも思える。
お金の使い方は人次第だが..
幼児教育産業と、性産業には
金さえ儲けられれば何やってもいいのか?
と、思わざるを得ない事が少なくない。
★★★★★
=======
長々とおつきあいくださり
ありがとうございました。
明日は、もっと短めにおさえます。





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Last updated  June 3, 2008 08:22:05 PM
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