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終戦の日はビアク島で戦死した大叔父の話に時折触れてきましたが、初めて祖父の話をすることにいたします。祖父が戦時中に亡くならなければ、私も違う名字で、違う集落に住み、違う学校に通い、違う人生があったかもしれないと想像したからです。
祖父は大変虚弱な人だったらしく、招集されることもなく、家族で北海道へ渡り何かの工場に勤めていました。イロハ……と並んだ社宅の「リ」に住み、そこで昭和19年春に父が末子として産まれました。しかしその工場の仕事にも耐えることができず、帰青。なぜか祖父家族は出身集落へ戻ることなく、妻である祖母の実家に身を寄せます。 祖母の実家からは戦死した大叔父と、今も健在の下の大叔父が戦地へ行っていたので、あの時代に戦地へ行くことも働くこともできない祖父は大変肩身の狭い思いをしたようで、罵る人もいたという話です。昭和20年の元日、冬の冷たいため池で、祖父は帰らぬ人となりました。 その後祖母は旧姓に戻し、実家の隅の地面に粗末な家を建て、(現在に至るまで我が家は)集落で最も財産もなく貧しく暮らし、しかし一生食べ物だけには困らず百歳近い長寿を全うするまでの長い間、孫の私は何度も、祖母に祖父の人となり等について尋ねました。しかし「リ」に住んで海岸に打ち上げられた昆布を拾った話はしても、祖父の話をしてくれることはただの一度もなく、そういえば祖父の生年月日も知りません。30年生きたかどうかも。最期の場所がため池だったことは、祖母の葬儀の折に父が話して初めて知りました。 終戦の日に、戦死された方、空襲等本土で亡くなられた御霊を慰め、戦争をしないことを誓い、平和を希求することは当然のことですが、慰霊の対象外で世を去った祖父を思うときに、75年経った現在でも、同調圧力だの誹謗中傷だのという言葉が飛び交い、役に立つか立たないかで人を追い詰めて、戦争の反省とか言う割に日本人全然いい人になっていないよなと感じるのです。せっかくここまで平和をキープしているのですから、そういう窮屈なことはもうやめましょうと言いたいです。 分けー。よく追いついたこれで負け越しはないぞ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月15日 23時48分47秒
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