つくる生活など

2021/08/16(月)00:17

我が家の戦時の暗いお話の続き

みのまわり(346)

今日は終戦の日なので、去年の日記の続きのお話をしたいと思います。 我が家の戦時の暗いお話 https://plaza.rakuten.co.jp/murasakidokoro/diary/202008150000/ 一々↑に飛ばなくてもいいように簡単に書いておきますと、私の父方の祖父は戦時中、兵隊も工場も務まらない虚弱な自分を悲観して亡くなってしまいました。 その後祖母は旧姓に戻し、実家の隅の土地に粗末な家を建て、子供3人と母子家庭で暮らしました。長男4つで夭折から始まって大変苦労したようで、祖母は先の暮らしを心配するあまり、40代前半頃、長く寝込んでしまったそうです。 そこで生活保護のお世話になり、病床の祖母に代わって長女(伯母)が役所の支所まで受け取りに行っていたとのこと。生保をいただいていた事実については、以前あった河本さんの騒ぎのときに伯母から聞きました。 祖母はそのとき顔面神経痛も患い片目を失明してしまうほどの重症でしたが、まだ次男(父)が中学生なのにここで死ぬわけにはいかないと気力を振り絞って回復したとの本人談で、当時どのような医療を受けたのかまでは、うっかりしていて踏み込んで聞いていません。 そして長女が嫁ぎ、次男は肥料店の奉公から車の仕事の夢を追って弘前に行ったので、自分ひとり食べられればよくなった祖母は、当然のことながら生活保護から脱し、夏は田畑の仕事をし、冬は東京へ出稼ぎに行くというひとり暮らしを70まで続けました。東京では家政婦紹介所に住み込んで、清掃や食堂などの仕事をし、私ら孫たちにランドセルやアメ横で売っていたというアニメが描いたシャツなどを買ってやるなど、貧しいながらもできる限りのことをしました。 もう出稼ぎとかいいだろうと心配した次男一家が団地住まいから戻って同居して、最終的に99歳4か月と20日という、寝込んだときの倍以上の寿命を得た祖母でした。後半生だけでも幸せだったと思っているとよいが、と今でも思います。 生活保護は苦境に陥った人は誰でも受けられるものであり、当時の祖母にとっては本当に命綱でした。すさまじい苦労をした祖母の命が猫より軽いとか言う人が最近いたので、断じてそんなことはないと申し述べておきたいです。 全国1万7832コロナ。東京4295,神奈川2081,埼玉1773,大阪1764.千葉1374,福岡681,沖縄661,愛知609,兵庫517,京都414,静岡394,北海道366など。 前線停滞 16~17日 九州など再び雨強まる 厳重警戒を 青森市1人、八戸市3人、三戸地方保健所管内2人、弘前保健所、上十三保健所、むつ保健所管内それぞれ1人、中国地方と関東地方に住む2人の11人。 むつ市 崩落した小赤川橋 仮設橋桁の設置作業進む 風間浦村の孤立地区 撤去が進み自衛隊の車両が通れるように e2-10L わくわく負け越しになってしまった。後半始まっていきなり3タテできるほどパの戦いは甘くはないど。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る