カテゴリ:詩以前のコトバ
どうして?という問いは人間理解にとって重要だろうか?
結局、どうしての?答えは、「どうして?」を発する質問者の受け皿に用意されているのだから。 だから必要なのは黙祷と沈黙。 +++ それが、以前なら、彼らが「それ」を起こさないようにするには「どのように」すればいいのかを当然考えた。 それがやるべきことだったからだ。 きっと、『感性は教育するものだ』と考えたに違いない。 それは個人の感性を絶対善で理想で無垢で豊穣とする現代の教育学の倫理観・人間観にはそぐわない。 使い古された指摘ではあるが、個人の感性は「世界に一つだけの花」だと、人々の感性が教育されているのだ。 +++ 以前の私なら、個人の感性は、貧困で独善的だ。感性を教育するべきだ。と考えたはずだ。 何が良いのか。 何が悪いのか。 これら論理的背景をすっとばして、倫理観に訓育すること。 それは、良い事をすると心地よい、と「感じるように」することだ。 そして、感性は体感するものであるから、感性を教育するということは、体を規制する、ということだ。 個人の貧困で独善的な、孤立した感性を社会化すること、が必要だ。 +++ その行為は、子供たちの「人権」や「身体の自由」を侵し、「全体主義」に向かう危惧を含んだ教育なのだ。眉唾だ! +++ 以前なら、まあ、こんな風にいろいろ考えたりしました。 けれど、まったく考える気にならない。 それに気づいたとき少し愕然として、私という人間の質が変化している!と例の事件以来考えてました。 +++ なぜかなあ、と考えてみると、自分が今受けているのはまさしく蕎麦屋としての「教育」なのだと思い至る。 そこでは「こうしたい」という感性を「こうしろ」という肉体強制によって実現する。 たとえば包丁の置き方一つで、仲間に大怪我をさせる危険があり、それをしないようにするし、しないようにされているという社会性を叩き込まれる。 店の味としての統一のためには個人の感性は二の次だ。 それが「売り上げ」という社会的評価に達成する、お給料を貰う、生き延びる、という体感にフィードバックされる。 「おいしい」と言われれば嬉しくなる。 だから、もう、考えて置く必要がないのだなあ、と思った。 +++ なぜ書くのか? ネットユーザーには考えたことを発信するべきだとする、道徳概念が私にあるからです。 +++ 家庭では1、キャンプに強制連行する。2、不自由な生活を強いる。3、一緒に料理する。食べる。おいしいねと笑う。4、後で使う人のために使う前よりきれいに掃除して帰ろうねという。きれいにすると気持ちいいね、と笑う。 こんなんで、全部入る。 +++ 学校では、、、、プロの人に任せるよ。(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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